■後から気づく母の支配
斎藤 「ふたり暮らし」の最後をちょっと読みます。「私は勝ち誇った気分になるのだ。母に、ではなく、なんというのか、自分の人生に」と書かれていますが、人生自体に母親の要素がどっぷり入っていて、どこからどこまでが自分の人生か難しくなっちゃう気がしますよね。密着の裏にある闇というのはひょっとして当事者も気づいていない形で潜在するのかな、という感じで、そういう意味でもこれは画期的だなと思ったんです。妹さんの家庭が出てきて、妹さんは過干渉な母親への反発から始まっていますよね――反発しながら支配されているという。世間的に、母娘問題というのは妹さんタイプが圧倒的に多いと思うんですが、書き始めるときに、そういう世間的に流通してわかりやすい母娘葛藤以外に闇があると示したかったこともあるのでしょうか?
角田 そうですね。私が20代から30代の半ばくらいにかけて、同世代の友人から母親の話を結構聞いていたんです。なんとなく自分の母親を尊敬していて、母親の価値観を一流だと思っていて、一生懸命話す女の子もいたんですけど、そういう子が、実は「これ私の価値観じゃなかった」と気づいたときにものすごく反転して、変化するというのを実際に聞いていたりしたので、そういうのも混ざっています。
斎藤 それは母からカルトみたいに支配されていて、急に気づくわけですか?
角田 気づく場合もあるし、気づかない場合もありますよね。
斎藤 なるほど。気づいた場合に、母に従って生きてきた人生は無価値だった、みたいな?
角田 はい。その当時はアダルトチルドレン(AC)という言葉が流行っていたので、「私、アダルトチルドレンだわぁ」という人が多くて、「あんたもか」という感じでしたね(笑)。
斎藤 ACは流行りましたからねえ。こういった言葉はすごく感染性が強い。特に今うまくいっていない人というのは、はっきりした原因が他にない場合には養育方針のせいにしやすい。ACという言葉にはメリットもあるんですが、デメリットとしては、解釈しようによってはどんな家庭にもある問題を、虐待として捉える視点が出てきてしまうんですよね。でも、ACが一気に増えたことによって母娘関係の問題が前面に出てきたというのはあるかもしれませんね。それをきっかけにして「母の支配」に気づいてそこから抜け出せたとしたら、よかったのでしょうかね?
角田 でも、気づいてから苦しみますよね。それと戦うんだと思います。ただ、私の見方が正しいかはわかりませんが、だんだん40歳になるとどうでもよくなってくるじゃないですか。「母が」「母が」といったこととかも、自分の日常の生活が大変になってきて、どうでもよくなるというか。
斎藤 それはいいですよね。それで支配または呪縛から逃れるには、とりあえず別居という選択肢もあるかと私は思うんですが、角田さん自身の実感としてはどうですか?
角田 私は二十歳で家を出たんですが、うちの母親は非常に干渉しやすい人で、娘たちの人生をコントロールしたい人だったんです。二十歳に一人暮らしをすると言ったときに、母が泣いて嫌がって、それを振り切って出てきたんですが、いったん出ると関係が良好になるんですね。もう一回、30代前後に、「ああ、もうお母さんって、もう!」というときがあって、それからまた良好に戻るという波がありました。
斎藤 それは、お母さんの態度が変わって起きた波ですか?
角田 たぶん、一回距離ができて安心して、「お母さん好き」「面白い」と思って近づいて、「あ、やっぱりちょっとダメ」と思って距離を置いたんじゃないですかね。
■娘の罪悪感とは何か
斎藤 確か、インタビュー記事で拝見した感じですと、一人暮らしをされたのは、89年くらいで、93年にまとまったお金を渡されて「これでやっていきなさい」みたいな、割とあっさりとした関係だと思ったんですが、それは冷たいとは思わなかったんですか?
角田 思わなかったですねえ。なんとなく母親も、私が家を出たことによって思うところがあって、自分が近くにいたら干渉しすぎてしまうとか、乗っかってしまうということに気づいて、恐怖を感じたんだと思うんです。それで、まとまったお金を、あなたの取り分はもっていっていいわよ、と言われたときに、子どもの頃の絵とか作文帖とか、写真とかを全部送ってきたんですね。母は母なりの「頼っちゃいけない」という気持ちはあったのかなあと思います。いきなり送ってこられて、最初はケンカ売ってるのかなあと思ったんです(笑)。でも、よく聞いたら、もう別々の生活があるんだから、それぞれで持っていましょうというような、考えがある上でやったんだなという説明をされたので、一気に気分が楽になったんです。家を出るときに、母親が泣いてとめてたので、「悪いことしているんだ」という意識があったので、「ああもう気にしないでいいんだ」「このまま一人で生きていけばいいんだ」というような、ある意味楽になった部分がありました。
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| 斎藤環さん |
斎藤 私の書いた本では、母娘関係をややこしくしている要素の一つが、娘の罪悪感や責任感です。本の中の言葉でいえば、「マゾヒスティックコントロール」。これは息子にはまったく通用しないけど、娘はなぜかそれに縛られてしまう傾向がある――もちろん個人差はあると思うんですけど。今のお話を聞くと、角田さん自身はその辺はあっさりしていた?
角田 家を出てしばらくは、罪悪感を感じていました。
斎藤 そこなんですけど、角田さんは何一つ悪いことしてないですよねえ?
角田 本当にそうですよねえ(笑)。あ、でも今の話をうかがっていて納得したことがあります。例えば、母親がやってくれたいいことっていうので、思い出したときにそこには独特の感情があって、そこには「あれ楽しかったなあ」とか「面白かったなあ」というのプラス、すごい切ないような、何かプラスアルファがあるんですね。昔、その当時付き合っていた恋人が母親のことを話したエピソードがあるんですが、すごく単純にきれいな思い出として語られていたんです。そのとき、「男の子ってこういう風に思うんだ」とシンプルさを感じたんです。私なんかの場合は、いいエピソードを思い出すときに何か独特なものがありますね。その独特な何かプラスアルファが罪悪感と直結しているように思います。
斎藤 それは独特の切なさですか?
角田 切なさとか、郷愁とか。母に対するものもあるけれど、それにプラスして、「もうあの時間には戻れないんだなあ」という感じとか。
斎藤 これはすごく重要なことだと思うんですね。男性の母に対する感謝というのは、たぶんに頭で考えた部分が結構あるんです。美談というか、なんか物語にしちゃう、というニュアンスが強いと思うんです。それはやっぱり体のレベルでは感謝できないというか、逆に言うと罪悪感をもてないという限界があるんで、本当にきれいな親孝行の話になってしまう。日本の親孝行のイメージというのは、野口英世の母からの手紙とか、笹川良一の孝子像みたいな世界になっていて、結局、男の母恋物みたいなものが原型になっていると思うんですが、今のお話はより核心になるというか、純粋な母子関係のエッセンスは、むしろ母娘関係にあるのかなという気がしました。
■母を一個の人間として理解する
斎藤 一方で、角田さんのいくつかの短編を読んだ感想として、そうはいっても、人間はわけのわからないものを抱えているという恐怖というのはあるのでしょうか? 『空中庭園』はまさにそういう感じで、お母さんの秘密が書かれるところなんて、こちらもすごくギョッとする感じがあるわけなんですが、それに比べると男性の秘密なんてかわいいものという感じですか?
角田 ああ、たぶん人ってわけがわからないものを抱えていると思うきっかけが、やっぱり母親だと思うんです。私はある程度の年齢になるまで、母親は最初から母親だったと思っていたんですが、それがあるとき、母親になる前の母親がいたって気づいて、すごい不思議な感じがしました。母じゃないこの人がいて、その部分は絶対に自分はわからないだろうということにギョッとしたことがあって、それ以来、人のもっているもののシンプルじゃなさ、わけのわからなさにより惹かれていったというのがあるかもしれないです。
斎藤 男性のわからなさと女性のわからなさの違いはあると思います?
角田 私は感覚的に選んでしまうので言語化できる力はありませんが、何かありそうな気がします。
斎藤 私は男性視点なので、男性の行為のわけのわからなさはわかりやすくって、もちろん本当の動機はわからないかもしれないけれど、わりと頭で理解して片付けやすいところがあるように思うんです。ただ、今おっしゃったところは大事なところで、お母さんとかおばさんという存在の認識は、ある意味自明なものというか、ずっと一貫してそういう存在なんだ、みたいな了解というかお約束が世間的にもありますよね。だから、そういう人が意外なダークサイドをもっていると驚かされるわけです。どこかでお書きになっていましたが、お母さんも一個の人間だと理解することが大切さだと思うんです。
というのも、私の本の中で引用したよしながふみさんの『愛すべき娘たち』の中でも同じような言葉が出てきます。「母というのは要するに一人の不完全な女の事なんだ」と。そう気づくことで、母親の呪縛から解放されるわけですね。当たり前ですが、母は母だけをやっているんじゃないし、一個の人間としての面もあるという気づきですね。僕は治療する立場として、悩める患者さんにこの感覚をどうやって持ってもらうかが問題だと思っています。角田さんは母を絶対と思っている人に対し、お母さんは不自由さをもった一個の人間だと知ってもらうには、どうしたらいいと思いますか?
角田 結婚前の話をできるだけつまびらかにするのがよいのでは。私がそうだったので。
斎藤 なるほど! それはすごく重要なポイントですね。なんか、あまりにも直接使えそうな話を聞いてしまいました(笑)。
角田 これって感覚ですよね。急にハッと自分でわかる場合もあるだろうし、それこそ何かの話を聞いて「なあんだ」と思う場合もあるだろうし。そのときのコンディションとか、年齢とか、環境とか、人間関係とか、それと母との関わりとか、全部からまってあるところにいかないと、ないことですよねえ。
斎藤 それは本当にそう思います。まだ、不完全な、今とは違うお母さんの顔を見つけるということはすごく重要じゃないかと。
角田さんは、お母様が亡くなられたときのこともエッセイでお書きになっていらっしゃいますが、その中で印象的だったのが、亡くなられた後に「感謝」とか「恨み」が破裂するんじゃなくて、亡くなる前と同じ気持ちが続いたと書かれてましたが、その後も変化はありませんか?
角田 さっきの『母の魂』じゃないですけど、母が死んだことによって「これだけ愛してた」と泣くとか、「これだけ憎しみがあった」と思うとか、強いAかBか、黒か白か、みたいな気持ちが出てくるのでは、という期待もあったんです。でもそんなことはなくって、好きなところもあれば、嫌いなところもあった。でも私の知っている母なんて、母の一部じゃないか、本当はよく知らない部分をもった一人の人間だったんじゃないか、という思いは、生きているときと変化せずずっとありますね。
斎藤 なるほど。おそらくその辺が、母娘関係の絆の深さなんでしょうね。
そろそろ時間もなくなってきたので、最後に結論というわけではありませんが、今後もこのテーマで何か書かれる可能性はありますか?
角田 たぶんあると思います。年齢があがるにつれて、女性の場合はテーマが変わっていきますよね。周りを見ても、結婚、出産、子育てなどテーマが変わってくる印象があります。母とか娘とかを含めて、いろんな角度になると思うんです。そういう意味で、たぶん母も含めて女性っていうものから自分の小説が離れないだろうな、とは思います。
斎藤 角田さんの小説は、ご自分の体験を直接、ベタに書くのではなくて、いったん蒸留し、抽象化した上で、まったく別の形でフィクションにしてしまうという力がすごいと思っています。ぜひこれからも小説の力で女性性の謎を教えていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
(これは、2008年10月7日に朝日カルチャーセンターにて行われた「母は娘の人生を支配するT――文学にみる母娘関係」と題された対談からの抜粋です。)