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特別寄稿

哲学者、日本語の謎に挑む
日本語と論理
飯田隆(慶應義塾大学名誉教授)

最終更新日 2019.06.17

しばしば日本語は論理的な言語ではないと言われるが、果たして本当か。長きにわたり、言語と論理にかかわる問題と向き合ってきた哲学者が、「徹底的」に考えてみた。
*NHK出版新書、飯田隆『日本語と論理(仮)』は2019年9月に刊行予定です。ご期待ください。また、本記事は同書の内容より一部を抜粋したものです。

「三人のこども」は、何人のこどもを指すのか

次のような文があるとする。

   (1) 三人のこどもが笑った。

 この文が正しく実際の事態を報告しているとみなされるときとは、どんなときだろうか。どんな条件が満たされていれば、事態は、この文が報告している通りだとされるだろうか。
 まず思いつくのは、「三人」、「こども」、「笑った」という三つの条件を満足するものがあれば、(1) は成り立ち、その逆に、(1) が成り立つときには、この三つの条件を満足するものがあるということだろう。
 たしかに(1) が成り立つとき、三つの条件は満たされている。しかし、三つの条件が満たされていれば、(1) が成り立つ、別の言い方では、真であると言えるだろうか。さっちゃん、みっちゃん、まあちゃんという三人のこどもが笑ったとしよう。そうすると、「三人」、「こども」、「笑った」という三つの条件を満たすものがあることはたしかである。「もの」と呼ぶのは適切ではないとしても、さっちゃんとみっちゃんとまあちゃんの三人が、これである。
 いま、さっちゃん、みっちゃん、まあちゃんに加えて、しーちゃんもまた笑ったとしよう。この状況でも、「三人」、「こども」、「笑った」の三つの条件を満たすものが存在する。もちろん、さっちゃん、みっちゃん、まあちゃんの三人がそうであるだけでなく、さっちゃん、みっちゃん、しーちゃんの三人でも、あるいは、みっちゃん、まあちゃん、しーちゃんの三人でもよい。
 つまり、三つの条件を満たすものがあるということが、(1) が真であることの条件であるならば、それは、

   (2) 三人以上のこどもが笑った。

という文が真となるための条件と、まったく同じということになってしまう。
 しかし、(1) が言うことは、(2) が言うことと同じではなく、

   (3) ちょうど三人のこどもが笑った。

が言うことと同じではないだろうか。
 (1) では「三人のこども」と言われているだけであって、(2) のように「三人以上の」と言われているわけでもなければ、(3) のように「ちょうど三人の」と言われているわけでもない。よって、(1) の「三人の」の解釈として、(2) が正しいのか、それとも正しいのは(3) の方なのかという問いが出てくる。たぶん多くのひとは、(1) の「三人の」は「三人以上の」という意味ではなく、「ちょうど三人の」という意味だと考えるだろう。ところが、不思議に思われるだろうが、少し前まで、この問題を扱った言語学者や言語哲学者のあいだでの支配的な見解は、(1) に現れる「三人の」は、「ちょうど三人の」ではなく、「三人以上の」と同じ意味をもつというものであった。そうした見解の背後にある議論は、「三人」のような日本語の数量名詞ではなく、もっぱら「three」のような英語の数詞を含む文についてのものだが、提出された議論や見解のほとんどすべてが、日本語に関しても成り立つ。たぶん、他の多くの言語についても同じような議論が可能だろう。
 「三人のこども」が、本来、三人以上のこどもを意味すると考えられた理由は、実際、そうした例があるということにある。たとえば、次のやり取り

   A: 三人のこどもに来てほしい。
   B: 三人のこどもなら隣の部屋にいる。

で、隣の部屋にいるこどもが三人以上だっとしても、B の発言はまちがいとはされない。よって、B の発言中の「三人のこども」は、三人以上のこどもを意味するのでなくてはならない。
 同様の例として、

   (4) 三人のこどもがいる人は、控除が受けられる。

が挙げられる。(4) の「三人のこども」は、ちょうど三人のこどもという意味だろうか。三人よりも多くのこどもがいる人は、控除を受けられないということが、(4) から出てくるだろうか。たぶん、そう考えないひとは多いだろう。よって、(4) の「三人のこども」は、三人以上のこどもを意味する。
 だが、こうした例とちがって、(1) のような簡単な文についても、「三人のこども」が、三人以上のこどもを指すと言うのはおかしくないだろうか。(1)を言うひとも、それを聞くひとも、そこでの「三人のこども」は、三人以上のこどもではなく、ちょうど三人のこどもの意味だと考えるのではないだろうか。
 この当然の疑問に対しては、次のように答えられた。たしかに、(1) の発言によって、ちょうど三人のこどもが笑ったことを伝えることができる。だが、このことは、「三人のこども」という表現の意味によって説明されるのではない。文字通りの意味で理解するならば、(1) が言うことは、少なくとも三人、つまり、三人以上のこどもが笑ったということである。だが、言葉のやり取りの際に守られる一般的な規則によって、(1) を聞いたひとは、それによって、ちょうど三人のこどもが笑ったことが正しいと知るのである。
 もう少し詳しく言えば、こうなる。言葉のやり取りにおいて、ひとは、特別の理由がない限り、自分のもっている情報を過不足なく伝えようとするということが、話し手と聞き手のあいだで了解されている。(1) の発言を聞くひとは、そこで次のように考える。 「笑ったこどもが三人よりも多いということを相手が知っているならば、(1) としか言わないのは、自分のもっている情報をわざわざ隠していることになる。しかし、相手がそうしたことをする理由は、この場合考えられない。したがって、三人より多くのこどもが笑ったとは言っていないのだから、笑ったこどもは三人ちょうどだろう。」


「三人のこども」はやはり、ちょうど三人のこどもを指すのではないか

 (1) で「三人のこども」が、ちょうど三人のこどもを意味するようにみえるのは、言葉の純粋な意味によって言えることではなく、言葉によるコミュニケーションの際に守られる一般的な考慮のせいだという、こうした見解は、長いこと、標準的見解であった。だが、この見解は、最近十年あまりのあいだに、さまざまな批判にさらされてきた。
 いちばん問題なのは、「三人」が、「少なくとも三人」でも「ちょうど三人」でもなく、「多くとも三人」を意味する場合があることである。典型的な例は、

   (5) 三個のケーキを食べてよい。

のような文である。親に、(5) と言われて、「三個のケーキ」は「三個以上のケーキ」を意味するのだから、ケーキを四個食べてもよいと、こどもが考えて、そうしたら、当然叱られるだろう。ここで「三個のケーキ」は、多くとも三個のケーキという意味であることを否定するひとはいないだろう。
 「三人のこども」は、ちょうど三人のこどもを意味するという人は、(5) の「三個」が「多くとも三個」を意味することを、言葉の字義通りの意味ではなく、言葉が実際に使われる際の考慮によって説明する。つまり、(5) が許すことは、文字通りの意味では、ちょうど三個のケーキを食べるということである。しかし、ある要求――三個のケーキを食べるという要求――が許可されるならば、その要求よりも少ない要求――三個よりも少ないケーキを食べるという要求――は当然許可される。よって、(5) に現れている「三個」は、字義通りには「ちょうど三個」だとしても、(5) が言うことは、三個以下のケーキを食べてよいと理解するのである。
 他方、三人のどもがいる人は控除が受けられるという(4) で、「三人」は字義通りには「ちょうど三人」を意味するが、「三人以上」の意味だと理解されることについては、次のような説明が可能だとされる。――字義通りに(4) が意味することは、ちょうど三人のこどもがいる人は控除が受けられるということである。われわれのような社会では、こどもが多い人ほど、こどもが少ない人よりも、国からの援助が必要だと考えられている。よって、(4) の発言を聞くひとは、ちょうど三人のこどもが控除が受けられるのならば、控除の必要がそれよりも高い人、つまり、三人よりも多いこどもをもつ人も当然、控除を受けられるという具合に推論する。よって、(4) は、「三人以上のこどもをもつ人は、控除が受けられる」と言っていると理解される。
 この議論は、われわれの社会のあり方についての、ある前提に基づいている。もしも、われわれの社会とちがって、こどもが多ければ働き手も多いから、こどもが少ない人よりも、こどもの多い人の方が、国からの援助の必要度は低いというような社会では、(4) は、反対に、こどもが三人以下の人は控除が受けられるということを意味するものと理解されるだろう。
 いまの例は、「三人」が字義通りには、ちょうど三人を意味していても、「三人以上」の読みが出てくることを説明できた例であるが、そうは行かない例もある。
 ひとつは、先に挙げた、机を運ぶのに三人のこどもが必要だと言われたのに対して、三人のこどもなら隣の部屋にいると答える例である。隣の部屋にこどもが何人いようが、三人以上いるならば、この答えは正しい。よって、ここで「三人」は「三人以上」を意味している。この例についての満足の行く説明は、簡単には見つからない。
 同様に説明のむずかしい場合は、(5) と対になる次の例である。

   (6) 三個のケーキを食べなければならない。

 ここで「三個のケーキ」は、三個以上のケーキを意味するものと理解されるだろう。ケーキを五個食べたひとは、(6) で言われていることに反することをしたわけではない。もしも「三個のケーキ」が、ちょうど三個のケーキを意味するのならば、なぜこうしたことが可能なのだろうか。この説明は不可能ではないかもしれないが、「ちょうど三個」、「三個以上」、「三個以下」と三通りに解釈される事例のすべてを、統一的な仕方で説明することができれば、その方がよいことはたしかである。

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