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特別寄稿

哲学者、日本語の謎に挑む
日本語と論理
飯田隆(慶應義塾大学名誉教授)

最終更新日 2019.06.17

数と様相

 「三人のこども」の「三人」が三人を意味することは当然だと思われたのに、それが、三人以上を意味したり、逆に、三人以下を意味したりするというのは、いかにも不思議である。しかも、こうした現象は、日本語に限られたことではない。同じ現象は、多くの言語で共通に現れる。実際、この現象は、英語に関して議論されたのであって、先にも触れたように、ここで紹介している議論は、英語の例についての議論を私が日本語にアレンジしたものにすぎない。日本語においてもこうした現象があることを、英語での議論とは独立にだれか気付いていたひとがいるのかもしれないが、私は知らない。
 このように広範に見られる現象であるにもかかわらず、そこに規則性があることが気付かれたのは、案外最近のことである。どのような規則性であるかを見るのにいちばんよいのは、(5) と(6) を並べて見ることである。

   (5) 三個のケーキを食べてよい。
   (6) 三個のケーキを食べなければならない。

 二つで共通している「三個のケーキを食べる」が、(5) では「……してよい」という文脈の中におかれているのに対して、(6) ではそれは「……しなければならない」という文脈の中におかれている。「……であってよい」と「……でなくてはならない」は、論理学で「義務様相」と呼ばれるオペレータ――一つの文から別の文を作るはたらきをする表現――である。
 ここで、様相について少し解説しておく必要がある。論理学で言う様相とは、可能性・偶然性・必然性といった種類の概念のことである。現在の哲学および論理学で、様相は、「可能世界」というものによって説明されることが多い。
 世界は、現実にそうある仕方とは、さまざまに違った仕方でありうる。そうした現実とは違ったあり方をしている世界全体を、可能世界と考える。世界がありうる仕方は無限に多くあるから、無限に多くの可能世界がある。現実世界もまた可能世界のうちのひとつであるとする。
 可能世界という概念を使えば、何かが必然であるとは、それがどの可能世界でも成り立つことであり、何かが可能であるとは、それがどれかの可能世界で成り立つことであると説明できる。また、何かが偶然であるとは、それがどれかの可能世界で成り立つが、どの可能世界でも成り立つわけではないことである。
 物理的に必然だとか可能だと言ったり、現実的に必然だとか可能だと言ったりするように、必然性や可能性には、種類がある。こうしたさまざまな種類の必然性・可能性を考えるには、可能世界の範囲を制限してやればよい。
 物理的必然・可能の場合には、可能世界の範囲を、現実の物理法則が成り立つ可能世界だけに限定して、そうした限定された可能世界のすべてで成り立つことを物理的必然、そうした可能世界のどれかで成り立つことを物理的可能だとしてやればよい。
 「……でなくてはならない」とか「……であってよい」という義務様相も、可能世界の範囲を制限することによって説明できる。可能世界の中で、そうあるべきこと――そうでなくてはならないこと――がすべて実現しているような世界だけを取り出して、考察の範囲をそうした可能世界に制限するのである。
 そうあるべきことがすべて実現されているなどということは、現実世界ではありえない――現実は、あってはならないことに満ちている――から、現実世界はこうした範囲からは除外される。現実世界が排除されるにもかかわらず、可能世界の範囲を、このように「義務論的に完全な世界」に限定することは、役に立たないわけではない。そうでなければならないこととは、義務論的に完全な世界のすべてで成り立つことであり、そうあってもよいこととは、義務論的に完全な世界のどれかで成り立つことであると説明することができるようになるからである。
 「……でなくてはならない」は、ある範囲のすべての可能世界で成り立つという意味で、ある限定のもとでの必然性であり、「……であってよい」は、同様の限定のもとでの可能性であるとみなすことができる。(5) と(6) を見ると、こうした可能性を表現する文脈で「三個」は「三個以下」、必然性の文脈で「三個以上」という意味になっている。このことに注意したうえで、次の例を見てほしい。

   (7) 車を運転するには十八歳である必要がある。
   (8) 一日二千キロカロリー摂っても太らないでいられる。

 (7) での「十八歳」は、十八歳以上と理解されるが、これは「……である必要がある」という、法律が遵守されているような可能世界のすべてで成り立つという意味で必然性タイプの様相的文脈のなかに現れている。他方、(8) の「二千キロカロリー」は、二千キロカロリー以下と理解されるだろうが、これは、「……であることは栄養学的に可能だ」という可能性タイプの様相的文脈に現れている。「歳」も「キロカロリー」も、必然性型の文脈では「以上」という読みになり、可能性型の文脈では「以下」の読みになるということは、このことが、さまざまな種類の量化で成り立つことを示している。こうした一般化が、さらに、次のような量化にまで及ぼせることは、次の例からわかる。

   (9) 牛乳を半分飲まなければならない。
   (10) 牛乳を半分飲んでもよい。


結局「三人のこども」は何人のこどもを指すのか

 ここまでの話をまとめると、こうなるだろう。すなわち、「三個のケーキを食べた」のような単純な文では、「三個」は、ちょうど三個を意味する。それに対して、こうした単純な文が、「……でなくてはならない」とか「……である必要がある」といった必然性タイプの文脈に埋め込まれるならば、「三個」は三個以上を意味し、「……であってよい」とか「……でありうる」といった可能性タイプの文脈に埋め込まれるならば、「三個」は三個以下を意味する。
 しかし、先に出てきた

   (4) 三人のこどもがいる人は、控除が受けられる。

はどうなるのかと聞かれるだろう。この文は、「控除が受けられる」と言うのだから、可能性タイプの文脈を作っているのではないか。それなのに、ここに現れる「三人のこども」が、三人以上のこどもを意味するのはなぜなのだろうか。
 この問いに対しては、(4) は実は多義的で二通りの解釈があると答えることができる。二つの解釈は、次のように述べることができる。

   (4a) 三人のこどもがいることが、控除を受けるのに必要だ。
   (4b) 三人のこどもがいても、控除が受けられる。

 われわれの社会のように、こどもが多いほど、国からの補助が必要とされる社会では、(4) を(4a) のように解釈するだろうし、われわれの社会とはちがって、働き手としてのこどもが少ない方が、国からの補助が必要だと考える社会では、(4b) のように解釈するだろう。(4a) は、控除を受けるために必要な条件を述べているのに対して、(4b) は、控除を受けることが可能な条件――より正確には、控除を受けることを不可能としない条件――について述べている。
 前者は必然性タイプの文脈であり、後者は可能性タイプの文脈である。前者で「三人のこども」は三人以上のこどもを意味し、後者では三人以下のこどもを意味する。これは、まさに、上で述べた通りである。
 あとまだ、「三人のこども」や「三個のケーキ」が、必然性タイプの文脈では「三人以上」や「三個以上」と理解され、可能性タイプの文脈では「三人以下」や「三個以下」と理解される、そのメカニズムがどうなっているのかを説明することが残っている。

   (5) 三個のケーキを食べてよい。
   (6) 三個のケーキを食べなければならない。

で説明することにしよう。この二つの文には、

   (11) 三個のケーキを食べる。

という文が、様相的文脈に埋め込まれている。(5) は、可能性タイプ、(6) は必然性タイプの文脈である。埋め込まれた文(11) が正しいための条件は、ちょうど三個のケーキを、たとえば、私が食べるということであるが、これは、「ケーキである」と「私が食べる」という二つの条件を満足する複数のものがあり、そのうちで最大のものは「三個」であるという条件を満足する――三個から成る――ことだと言い換えられる。これはさらに、私が食べるケーキの個数の最大のものは三であると言い換えることができる。
 (11) が必然性タイプの文脈に埋め込まれた(6) の方から考えよう。(6) は二通りの仕方で解釈できる。ひとつは、ここで考慮の対象となる可能世界――義務論的に完全な世界――の各々において、私が食べるケーキの個数の最大のものは三である、つまり、どの可能世界でも、私はちょうど三個のケーキを食べるというものである。もうひとつは、義務論的に完全な可能世界のどれでも私が食べるケーキの数のうちで最大のものは三であるという解釈である。
 このままではわかりにくいにちがいない。記号を使って説明できれば、まだましなのだが、そのための準備もたいへんなので、こうした無理がところどころ出てしまう。できるだけがんばってわかりやすくしてみよう。
 第一の解釈では、私が食べるケーキの個数は、どの可能世界でも三である。それに対して、第二の解釈では、私が食べるケーキの個数は、可能世界によって違っていてよい。ある世界で、それは五個、別の世界では十七個、また別の世界では三個であるかもしれない。私がどの可能世界でもケーキを食べているならば、可能世界のどれにおいても私が食べるケーキの数は、一以上である。もしも私がどの可能世界でも二個のケーキを食べているならば、この数は二以上になる。つまり、可能世界のどれでも私が食べるケーキの数が三であるならば、私はどの世界でも最低三個のケーキを食べていることになる。
 よって、可能世界のすべてを通じて私がある数のケーキを食べるとして、その数のうちで最大のものが三であるということは、私がケーキを五個なり十七個なり食べる可能世界はあっても、そして、ちょうど三個食べる可能世界はあっても、私が二個しかケーキを食べないような可能世界はないことを意味する。ここで考えている可能世界は、義務論的に完全な可能世界であるから、義務がすべて実現されているならば、私はケーキを三個以上は食べているということである。
 同様の説明は、可能性タイプの文脈をもつ(5) にも適用できる。(5) も理論上は二つの解釈が可能である。ひとつは、ちょうど三個のケーキを私が食べる、義務論的に完全な世界が存在するという解釈である。この解釈は、そうした可能世界があるというだけであって、他の世界については、何の制約も与えない。とりわけ、私が食べるケーキの個数に対して何の制約も与えない。私がケーキをまったく食べない世界があっても、逆に百個食べる世界があってもよい。したがって、この解釈が取られることはないだろう。採用されるのは、もうひとつの解釈の方である。これによれば、「ケーキである」と「私が食べる」という二つの条件を満足するものとして、どれかの可能世界でみつかる複数のものの個数の最大のものは三であるという解釈である。この解釈によれば、可能世界のなかには、私がケーキを食べる世界もあれば、食べない世界もあるだろう、しかし、どれかの世界で私がケーキを食べるならば、その個数は三以下でなければならない、なぜならば、そうしたケーキは最大で三個だということを、(5) は述べているからである。

(了)

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プロフィール

飯田 隆(いいだ・たかし)

1948年北海道生まれ。主に言語と論理にかかわる問題を扱ってきた哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。熊本大学、千葉大学、慶應義塾大学、日本大学で教え、科学基礎論学会理事長と日本哲学会会長を務めた。慶應義塾大学名誉教授。著書に『言語哲学大全』Ⅰ-Ⅳ(勁草書房)、『ウィトゲンシュタイン』(講談社)、『規則と意味のパラドックス』『新哲学対話』(筑摩書房)、編著に『ウィトゲンシュタイン以後』(東京大学出版会)、『ウィトゲンシュタイン読本』(法政大学出版局)、『哲学の歴史11――論理・数学・言語』(中央公論新社)など多数。