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特別寄稿

なぜいま、「幕府」を問うのか?
〔前編〕
東島誠

最終更新日 2019.10.15

伝源頼朝像(神護寺蔵)

佐藤進一の死

 二〇一七年十一月、戦後歴史学に多大な影響力を及ぼし、疑いもなく〈生きた言説〉を紡ぎ出しえた歴史家、佐藤進一が他界した。享年百歳。私の、先生の先生の先生に当たる人、というほどの世代差なので、私は佐藤進一その人のお目 にかかったことはない。ただ、万年筆で書かれた先生の長文のお手紙や毎年の年賀状を励みとしてきた、おそらくは最後の世代であろう。
 私は二〇一九年はじめに、その佐藤への追悼の意を表すべく、「「幕府」論のための基礎概念序説」という論文を、学術雑誌『立命館文学』第六百六十号に公表した。世上、「佐藤説は破綻している」などという、的外れな批判が垂れ流されていることに対し、誰も火中の栗を拾おうとしないので、あえて私が拾ってみることにしたのである。ツイッター上で同論文は、一瞬興奮の声をもって迎えられ、案の定と言うか、直ちに手筋の悪いコメントがこれをかき消していった。たとえば私がある学術書の主張を批判したら、ネット上ではその学説を全面肯定したことになっている、なんていうのは、まだほんの序の口だ。何より驚くべきことに、大学入試水準の現代文さえ満足に読みこなせない人々が、専門家を名乗る人のなかにも少なからずいることが露呈してしまったのである。同論文は、幸い立命館大学人文学会のサイトから無料でダウンロードできるので、本書を手に取られた読者は、本書読了後にでも、ぜひチャレンジいただきたい。特にこれから研究を目指そうとする若い人たちにとっては、各自のリテラシーのレヴェルが十分であるかどうかを確認する機会ともなるだろうし、そうでない人の場合にも、本書を読んだ後であれば、実にすっきりと物が見えてくること、請け合いである。
 さて、その佐藤が、半世紀以上も前の一九六〇年に建てた理念型(分析のためのモノサシ)が、「主従制的支配」と「統治権的支配」である。詳しくは第三章に譲るが、この二つの理念型を建てることによって、権力分析が格段に深められることとなった。佐藤の学説が〈生きた言説〉たりうるのは、室町幕府開創期に、足利尊氏が「主従制的支配」を掌握し、足利直義が「統治権的支配」を掌握したことを解明したからではない。もしも佐藤学説をそのようなものと理解するなら、それは〈死んだ言説〉でしかない。むしろ、「統治権的支配」に見えるものが決して「主従制的支配」から自由でないこと、つまり属人的でない、法に基づく支配がこの日本社会にあっていかに困難か、という同時代的な問いをそこに読み取って、はじめて佐藤学説は、〈生きた言説〉として、われわれの心を揺さぶるのである。
 本書も、そのような書を目指したいと思う。




明治国家と幕府、幕府的存在

 ついさきごろまで、幕末維新期の研究者は多忙だった。二〇一七年が大政奉還百五十周年、つづく二〇一八年が明治維新百五十周年だとか何とかで、各地で記念行事が開催され、講演や原稿書きの依頼が絶えないとの話だった。が、その喧噪もどこへやら。ようやく周りが冷静になったところで、それらの行事のひとつ、京都市の「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」の説明文を読み直してみると、なかなかに興味深い。

 平成二十九年(二〇一七年)は、武家政権が終わりを告げ、新しい国づくりへの転換期となった慶応三年(一八六七年)の「大政奉還」から百五十年の節目にあたります。
 京都市では、この機を捉え、「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」を実施することとし、幕末維新に京都で活躍した先人たちとゆかりを持つ都市に参画を呼びかけ、相互に交流・連携を図る事業に取り組みます。

 武家政権という旧体制を終わらせることが「新しい」とは、何とも古色蒼然たる歴史観だが、かの坂本龍馬が、一八六七年に暗殺される直前、「新国家」について書いた書状が二〇一七年初めに公開されたことも、この「新しい国づくり」なるムードを後押ししているのであろう。
 実際、武家政権、幕府こそ悪であり、旧弊だ、とするレッテル貼りは、当の武家政権が終わりを告げても、明治国家、否、戦前期を通じて、対抗勢力を押さえ込もうとする際には、非常に便利なものだった。だからこそ、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きが出ると、これを「覇権」「覇府」と見なし、すなわち幕府的存在を作るものだ、という物言いが飛び出すことになる。
 いや、それだけではない。そもそも「幕府」という呼称自体、後期水戸学の尊王思想、すなわち王道を「覇権」より上に位置付ける思想のもとで語られた、事実上の〈造語〉に等しい、と指摘する向きさえある。政治思想史家渡辺浩の主張によれば、「幕府」とは後期水戸学に起源する戦前の皇国史観の象徴のような語なのだから、学術用語として用いるべきでない、ということになる。
 だが、果たしてそうだろうか? そう疑問を投げかけたのが、「はじめに」で紹介した私の論文「『幕府』論のための基礎概念序説」である。のちに詳しく述べるように、鎌倉幕府に限っては鎌倉幕府と呼んで何ら問題はない。
 歴史用語というのは、たしかに難しい問題を内包している。われわれはつい、鎌倉幕府、室町幕府などといったコトバを何の疑いを持つこともなく用いて歴史を語ってしまうのだが、そのような四字熟語が同時代に用いられていたかどうかは、少しも自明ではない。さきの「大政奉還百五十周年」にしても事情は同じで、「大政奉還」ではなく、じつは「大政返上」こそが、当時の史料上の表現であったことが知られている。つまり、教科書に載っている歴史用語というのは、往々、明治以降の国家を正当視する歴史観のもとで創り出されたものなのである。
 とまあ、大概の本であれば、ここらあたりを落としどころにするのだが、本書はもう一ひねりしてある。「鎌倉幕府」なる用語を疑いもなく使う大多数の人に向かって、にやりと笑い、「そんなものは近代に創られたんだよ」と言いたげな訳知りの人に対しても、「いや、当時の言い方からしても、鎌倉幕府と言って問題ないんだよ」という、もう一段上の正答を用意してある。それが本書の立ち位置であり、本書を手に取られた方にのみ約束された特典だ。

(つづく)

NHKブックス、東島誠『「幕府」とは何か』は2019年度に刊行予定です。ご期待ください!

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プロフィール

東島 誠(ひがしじま・まこと)

1967年、大阪府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。現在、立命館大学教授。専攻は歴史学。著書に『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』(東京大学出版会)、『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社選書メチエ)、『〈つながり〉の精神史』(講談社現代新書)、『日本の起源』(與那覇潤と共著、太田出版)など。