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特別寄稿

なぜいま、「幕府」を問うのか?
〔後編〕
東島誠

最終更新日 2019.11.01

伝源頼朝像(神護寺蔵)

前回に引き続いて歴史書ブームを分析しながら、過去に3度、20年ごとに中世史がブームになってきたことの意味を考えます。
※本記事は、2019年度に刊行予定のNHKブックス、東島誠『「幕府」とは何か』から、「はじめに」と序章「いま、なぜ中世史ブームなのか、そして、なぜあえて幕府論なのか?」を先出しでお届けするものです。

室町幕府ブーム?

 大政奉還百五十周年、明治維新百五十周年の記念行事の一方で、いまふたたび中世史ブームだという。それも、よりによって室町幕府が熱い。呉座勇一『応仁の乱』を機として、いわゆる室町本が飛ぶように売れているとのことだが、ただ、なぜこれだけのブームを呼んでいるのかについて、説得力のある説明を目にすることは、いまだない。呉座自ら譬えるように、応仁の乱と第一次世界大戦に類似点がもし本当にあるのだとしても、大戦の引き金となるサラエヴォ事件から百年に一つ余る年に安保関連法を通過させてしまったこの国の〈空気感〉と、その翌年刊行された同書の売れ行きの間に、因果関係があるとは思えない。
 もちろん、アカデミズムの内部事情から、いくつかの伏線を語ることは比較的容易である。一つには、この十数年の間に、大学や文書館等の所蔵史料データベースの公開が進み、史料へのアクセスが容易になったことで、それまで手薄であった室町時代の研究が一気に進んだこと。いま一つには、戦後の民主化をテーマとした「戦後歴史学」の流れが完全に終焉し、歴史学、とりわけ前近代史の若手研究者が、無思想のまま緩やかに右傾化(ネトウヨ化)していること、等々。とはいえ、こうした伏線の上に新時代の寵児たる呉座が登場したのか、と言えば、これもどこか物足りない説明だ。
 しかも、こうした説明の仕方には、奇妙なねじれがあることを見逃すべきでない。旧来の思想的色分けからすれば右寄りのこれら新しい論客たちが、こともあろうに、戦前には「逆賊」と呼ばれた足利将軍家の時代を、嬉々として論じているのだから。もはや右か左か、というような単純な時代ではない。
 ともあれ現時点で確実に言えることは、『応仁の乱』は、かつてブームを起こした網野善彦の「無縁の原理」や與那覇潤の「中国化」とは根本的に違う、ということだ。どこが違うのか。それは、他分野に応用の利くような〈ものの見方〉を一切提示していない、という一点だ。そこが、世上「なぜ売れているのか分からない」などと言われる所以でもあるのだが、いや、だからこそ売れているのだろう。ただ、もはや歴史学には〈ものの見方〉など求められていない、のだとすれば、これはこの業界にとってかなりヤバい、危機的状況なのではあるまいか。


歴史の転換点としての二〇一六―一七年

 二〇一七年に「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」が掲げられる一方、同年暮に、同じ京都の地で地球未来シンポジウム二〇一七「希望の探求」が開催され(於・国立京都国際会館)、私もセッション1「文明が転換する大きな音が聞こえるか?」で登壇した。論題は「日本史における文明の転換と循環」であり、そこで論じたのは、だいたい次のようなことである。

① 現代社会は、中世へと向かいつつある。
② ポストモダン思想が批判したように、たしかに近代は悪も生んだ。しかし、近代の最良の部分は、擁護すべきである。
③ その近代とは、西欧のそれとは限らない。東アジアの思想に根差す「東アジア的近代」もまた、有望なリソースである。
④ たとえば中世の禅の世界にはすでに「公論」や「公選」の語があり、それを支える思想が「江湖(ごうこ)」の精神、すなわちムラ社会に抗する自由、価値観を異にする他者にも開かれた思想であった。この思潮は、日本では十四世紀(南北朝)、十六世紀(戦国)、十九世紀(幕末明治)の三度、歴史に浮上した。
⑤ 「東アジア的近代」の波は、冷めやすく、長続きしないという欠点を持つ。ただし、何度でも起こすことが可能であり、現代において必要である。

 つまり、「広く会議を興し万機公論に決すべし」の第一条で知られる五箇条誓文の「公論」とは、幕末維新期に登場した新しい思想などではまったくなく、中世の「公論」のリヴァイヴァルに過ぎない、ということだ。ただし中世の「公論」「江湖」世界は、社会全体を覆いつくすことのない、周囲から隔絶した異空間、言うなれば「中世のなかの近代」
であった。中巖円月(ちゅうがんえんげつ)のような中世禅僧は、あたかも近代日本の知識人が西欧を理想として日本の現実を批判したように、中国を理想として、それが当時の日本社会にないことを絶望視したのである。
 そして、さきにも指摘したように、こうした近代(的契機)は歴史上、三たび浮上した。その、一度目の近代(的契機)と三度目の近代を重ね合わせたのが図1である。


図1 東アジア的近代としての「江湖」


 これは、中世の禅画「瓢鮎図」の構図が、ナマズは「江湖の楽」=自由な世界へと泳ぎだすことができる、であったことと、坂本龍馬土佐脱藩の港が通称「江湖」(愛媛県大洲市)と呼ばれていること、この二つを重ね合わせたコラ(ージュ)であり、シンポジウムで実際に投影した画像を再現したものである。拙著『〈つながり〉の精神史』の「江湖と理想」の章でその学問的根拠を確認いただければ、この夢のコラボ(レーション)に対し、「〇〇」などとお叱りを受けることは、よもやなかろう、と踏んでいる。
 では、改めて問おう。なぜいま「中世のなかの近代」なのか、と。それはシンポジウムの冒頭述べたように、いま、時代が確実に中世に向かいつつあるからである。つまり、「中世に向かう現代」だからこそ、「中世のなかの近代」に着目しよう、という話だ。
 「中世に向かう現代」。じつはこの感覚は、きわめて敏感な人であれば一九七七年に、相当敏感な人ならそれから二十年後の一九九六年には、持ち得たものだ。そして、今次の新・中世史ブームは、それからさらに二十年経った二〇一六―一七年あたりを画期とする。「中世に向かう現代」という感覚の裾野が、いままさに大きく拡がりつつある、そういう時期に来ているのだ、というのが私の見立てである。そう、歴史は、短期的には二十年サイクルで動く。これは、前著『日本の起源』の読者にはおなじみの話であろう。
 この〈中世史ブーム〉の三つの小波について、さきのシンポジウムを聴いておられない大多数の読者のために、もう少し補足しておこう。


近代への〈退場宣告〉が行われた一九九六年

 一九九六年という年は、西欧近代の価値観を最上位に置いてきた、いわゆる近代主義者にとっては、受難の年である。今でもわれわれは、つい「近現代」などという、一緒くたな言い方をしてしまうが、じつは近代と現代ほど異なった時代はない。近代こそ暗黒の時代であった、というような、一種の〈親殺し〉、近代への憎悪を語る言説が大流行したのが、まさに二十世紀末、一九九〇年代の中葉であった。とりわけ一九九六年は、戦後民主主義の旗手というべき政治学者丸山眞男が没し、これを槍玉に上げることで、近代をばら色に描く物語は、ここにようやく終わりを告げた。
 かくして、近代への退場宣告がなされるなか、近代国家に替わる世界システムを論じる書として、田中明彦の『新しい「中世」』が出たのが、丸山の死と同じ一九九六年。そこでは、世界システム全体が「新しい中世」へ移行できるか、移行できたとして、より望ましいものになるかどうか、なおかつそれは、今後二、三十年間の東アジアの動向にかかっている、ということが論じられていた。あれから二十年経った今、確かに世界の中世化は進んでいるものの、どんなにグローバリゼーションが進行しても、何人もの論者が予測したような、近代の主権国家の枠組みが衰退して、中心を持たない「地域」連携に取って代わられる、なんて事態にはならなかった。その一方で、中世化の負の側面ばかりが目立つようになり、ネオ・リベラルが行き着いたところの弱肉強食の時代、格差社会どころか、カーストの顕在化による身分制社会への再突入が現実問題となってきている。田中の『新しい「中世」』は二〇一七年になって文庫で復刊されたが、この問題がいまなお現在進行形だからなのか、もはや古典となり現役の議論でなくなってしまったからなのか、は微妙なところだ。


中世史ブームの起点としての一九七七年

 じつは、近代の主権国家システムの終焉が予感され、ポスト近代の選択肢の一つとして、新しい中世が論じられた契機は、田中明彦の『新しい「中世」』よりさらに遡ること二十年、一九七七年のことであった。ヘドリー・ブルの『アナーキカル・ソサイエティ』(邦題は『国際社会論』)である。つまり、ブルの議論を「新しい中世」1.0とするならば、田中の「新しい中世」とは、ヴァージョン2.0なのだ。そして、何を隠そう、日本の論壇で、時代の転換期として中世が脚光を浴びたのも、ちょうど「新しい中世」1.0の時期なのである。たとえば、村上泰亮・公文俊平ら東大駒場の相関社会科学三人組が、『文明としてのイエ社会』で十一世紀、東国武士団の「イエ社会」の誕生こそが近代文明の出発点だ、と論じて、十一―十六世紀を転換期と見たのが一九七九年だった。
 これに対し、宮崎駿監督作品に多大な影響を及ぼした歴史家網野善彦が、『無縁・公界・楽』その他の著作で、十四世紀、南北朝時代こそが転換期だ、そこが原始以来の自由が衰退していく曲がり角だった、としたのが一九七八年以降。そして、歴史家勝俣鎮夫が、『戦国法成立史論』で、十五世紀、応仁の乱から戦国時代にかけてが、近代の始まり、アーリー・モダンへの突入だ、と論じたのが、村上・公文らと同じ一九七九年だった。ちなみに、この勝俣説の存在を知らずに、それから三十年近くも経った二〇〇八年になって、応仁の乱以後=近代を「私なりの新味」ある説と主張したのが、井上章一『日本に古代はあったのか』である。


図2 「新しい中世」1.0期の議論に見る〈近代〉の起点


 図2にまとめたように、中世の前に転換点を置き、中世こそ近代の起点と見る村上・公文ら、中世の後に転換点を置き、いや中世こそ非近代だ、とする勝俣、後者に限りなく近い立ち位置ながら、時期的にはその中間を重視する網野、と論者によってターニングポイントこそ異なるが、いずれにせよ中世こそが長い衣替えの時期(図のグレー部分)で、歴史はかく二つに切れる、と主張する点では三者共通しており、これが一九七〇年代末の日本の論壇のトレンドだった。ただし、この歴史の二分法の背後にあるのは、網野・勝俣の議論に顕著なように、東洋史学者内藤湖南の言う、応仁の乱以前は「外国の歴史」、つまりは“エキゾチック中世”ということであって、その初発の時点では、必ずしも「新しい中世」という文脈、つまりは「近代の終わり」の感覚からではなかったことには注意すべきだ。

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