人気・実力を兼ね備えた執筆陣が贈る連載・読み物や豪華インタビューなど、
NHK出版が刊行する書籍(新書・翻訳書・文芸書・教養書)をご紹介するサイトです。

連載

「愛と性と存在のはなし」 赤坂真理
第1回 性的マイノリティは存在しない

最終更新日 2019.09.02

 性的マイノリティは存在しない。
 のっけから衝撃的なことを、あるいは反動的にも聞こえることを言うのを、ゆるしてほしい。

・・・

 これから、とても繊細な話をしようと思う。
 いちばん繊細に語らなければいけないことを、わたしの持てる力のすべてをかけて、可能な限りの繊細さと大胆さで語ろうと思う。
 いちばん繊細に語らなければならないこと、それは、愛と性のことだ。
 愛と性はかなりちがう。
 にもかかわらず、とても混同されやすくできている。
 混同は、一致とはちがう。
 一致したらしあわせだ、と思う。 存在にとって。
 一致することはあるのだろうか?
 ある。
 あると信じている。
 長続きするのか?
 それはまた別の問題だ。

 人類の大問題としてそれらの問題はあって、人類最古にして最新の問題としてそれらはあって、まだわたしたちはその繊細な議論のとば口にさえ立っていない。自分自身も含めて、そんな感じがする。
 そして、性がその本来の繊細さ、多様さを取り戻してきたのは、最近のことであるような気がする。複雑になるベクトルと、本来の多様な自然に還るベクトルがいっしょにあるような、面白い時代に生きていると思う。
 あれ? わたしは、性的マイノリティが、あると言ってないか?
 そう、わたしは、いわゆるセクシュアル・マイノリティの多様性は、性本来に備わったものであり、性の自然なのだと思う。それが、ゆるされるようになってきたのだと見る。
 だとしたら、すべての人の中に、ポテンシャルとしてあるのではないかと思っている。
 しかし性愛はそのポテンシャルが、今でさえ、乗りこなされていない。


 「性自認と性志向に多様性を認めよう」といのは、けっこうなことだと思う。でもその前に。一人ひとりが、自分と自分の愛について、わかっているんだろうか。
 わかっていない。わたしも含めてわかっていない。真剣にわかろうとしたことがほとんどない。そう思う。

 いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」を語るとき盲点になるのは、「ヘテロセクシュアル(異性愛者)には問題がない」という気持ちに、無意識にも、なることだ。
 そうなんだろうか?
 ある意味、ヘテロセクシュアルほどむずかしいものはない。
 世間的な通りのよさをのぞけば、ヘテロセクシュアルほどむずかしい関係性はない。そんな気さえ、この頃する。
 異性は、相対する相手として、違和が大きい。
 目の前にいるそれは、あまりにちがった生物で、わかり合うのがむずかしい。
 どこを見ても、「ヘテロの中の異性嫌い」「ヘテロ内の異性対立」の言語があふれている。もしこれが、同性愛者がパートナーへの不満を語る言語であったなら、その相手は「個人」として扱われているはずだ。女が、レズビアンのパートナーである女に対し「女はこうだ」とか、「だからレズビアンの女は」と言うとは思えない。個別の話にするはずだ。
 だけれどヘテロの男女は、とりわけ女は、すぐ、異性を一枚岩の異物のように扱いたがる。
「男は」「女は」という言葉は、異性愛者の間にだけある。それは両性を分断する言語だ。「敵陣営」に対する言葉なのだ。その言語の不毛じたい、ヘテロの悲劇と思える。あるいは笑えない喜劇と。たとえばよくあるキャッチーな言葉として「ワンオペ育児」というのがあるけれど、それで夫を非難する妻は、ある意味夫を一人の人として見ていない。わけがわからず話が全く通じないひとかたまりの生物の一部と見ている。
 しかしそれには一理はある。
 本当に、異性の内実のことは全く、想像がつかないのである。
 ここがヘテロセクシュアルの関係性のむずかしさだと思う。

 本当は、いちばんむずかしいと言っていいほどむずかしいのだけれど、ヘテロセクシュアルは、体裁だけはきれいに整ってしまう。世間的には通りがいい。異性と交際してなんら変だと思われないし、結婚してなんら変だと思われないし、ヘイト感情も浴びないし、子どもができて「自然」だと思われている。これはやっかいだ。
 ヘテロが自分自身を知る機会は、ほとんど失われている。そして問題が出てくると、相手が悪いのだ、そう思いやすい。問題を、本当に切実な自分のこととして認識することが、ヘテロはむずかしい。問題と認識されない問題は、知らないうちに「痛み」としてたまる。痛みと認識できないことは、ケアされることもない。ちゃんと話し合われることさえほとんどない。それは、もう一方への「恨み」としてたまる。

 先に触れた「ワンオペ育児」というコトバは、育児を、平等な労働市場のタームにして、不平等を語るものだが、それを便利に使うとき、見過ごされるのは、子どもは圧倒的に母親に愛着する、という事実だ。そもそもに「平等でなさ」が、原初の性をめぐって、ある。そこが女の喜びであり圧倒的負担である。そこが男の楽さであり疎外感である。比べられない感情を、同じ土俵で比べようとする。それで、相手が悪いと言い募ったり、対立をしたりする。
 性とセックスをめぐって、あまりの不均衡が出やすいのがヘテロセクシュアルであり、地球はその憎しみであふれていると言っても過言でない気すらしてくる。
 この違和を超えて異性が、愛とハーモニーで結びつくことは、多様性が叫ばれる一方で、むずかしくなるばかりなのではないかと感じる。それがただのきれいごとにしか思われないようなところが、ヘテロの悲しさだ。

「性の多様性を認めよう!」と人々が言うとき、ヘテロは、その対象外だ。
「多様性を認めよう」という議論の中に、「異性の自然を多様性として認めよう」という議論は、ない。たとえば、女に比した場合、男は「感じない」と言われる。男の快感は局所的であるという。これはよく言われることだし、だから男は身勝手なセックスをするとさえ言われてしまう。なんなら、ペニスが悪いのだくらいに。けれど、本当に快感が局所的である存在の内実を、わたしは、あるときまで、一度も想像してみようとしたことがなかった。それを想像してみたとき、それに「なってみる」想像をしたとき、セックスだけでなく、その感覚はすべてに及ぶのだ、とわかった。いや、わかる一瞥を持った。
 女が男によくする要求は「わたしをわかって」で、わたしもそれをよくしてきた。なんでわかんないの? と思ってきた。男を恨みもした。
 しかし、ちがう身体になってみる想像をすると、「本当にわからない」のだ。そしてそれは、悪ではない。男が女の感覚をわからないこと、それはただの自然である。
 ちがう身体を持った人への想像力を、わたしたちはほとんど持てない。まして異性の身体の内実は、想像することさえむずかしい。異性は、ごくふつうにいる絶対他者だ。なのに、想像もできないことに対して、あまりに簡単に推測して、なにかを断じて非難することが多すぎる。それがヘテロの世界で、ヘテロは、常に、内なる戦争状態にあるかのようだ。
 女は男を、性感が局所的である人の体感を、想像してみようとしたことがあるだろうか? 体感が局地的であるということは、おそらくは、ふだんから、皮膚などを通した知覚量が少ないということだ。だから男は古くから兵士にもなれた。だから物事に集中しやすい。知覚に外に引っ張り出されることが少ないのだ。対して女は気が散りやすい。ささいなことで知覚を持っていかれてしまう。
 どちらも、互いの自然について、理解しようとはせずに、人格の問題にすりかえる。人格の問題にすりかえるくせに、相手を「個」としてみていないのはすでに言ったとおりだ。
 自分が自分と反対の性の身体と体感を持っていたら、世界の見え方感じ方や、ひいては考え方が、どうちがうだろうか? 想像してみるといい、一度でも。それは世界を変える。
 ヘテロセクシュアルが悲しいのは、この圧倒的なわからなさを、ちがうものへの驚きととらえ、賞賛ととらえる回路を、わたしたちが、育てていないことだ。
 これを、多様性の議論の中にさえ入れないことだ。
 それでいて、異性愛以外の愛の多様性に認めましょうと言っても、それはただの言葉であり、努力目標である。
 努力目標だから、すぐ簡単に「べき論」になってしまう。
 自分とちがう愛や存在のかたちを持った人に、本当の理解も、興味さえ、持ってはいないのではないか。
 正直に告白すると、わたしには、同性愛者の内的感覚はわからない。
 そしてそれは、異性愛者が異性に対することと、同じなのだ。あまりの異物を見るまなざし。本当にわかろうとは、していない。

  • 1
  • 2