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連載

「愛と性と存在のはなし」 赤坂真理
第1回 性的マイノリティは存在しない

最終更新日 2019.09.02

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 あるとき親密な関係の男に、
「女みたいにされたい」
 と、言われたことがあった。
 彼としては、とても勇気を出してそう言った。
 その切実さには涙が出そうだった。
 そうだったのか、と胸を打たれた。
 その望みを、わたしは聞いた。
 そして、叶えていない。
 わたしはそのあまりのちがいに心は打たれた。
 しかしそこからそれを育ててはいない。
 彼もそれ以上はリクエストしてこない。
 告白でけっこう満足してそれ以上進もうとはしない。
 なぜだろう?

 めんどうくさいのだ。お互いに。
 お互いに、多大な努力がいる。
 わたしの努力がいるし、彼の努力も、いる。
 感じようというのは、個の領域を超えて感じようというのは、能動的なことで、自分も安全域を出なければならない。それは危険なことだし、相手に全幅の信頼がなければできない。信頼した相手に受け止めてもらえなかったら、自分は壊れてしまいそうだと思う。それこそが、他者と本当に出逢うことの美しさだとしても。そのリスクをおかすくらいなら、知らないほうがいい。そう思う気持ちは、誰にでもある。
 「女みたいにされたい」の、本当の本当を、わたしは、たしかめてさえいない。
 本当のところ、どうしてほしいのか。
 それはたとえば、
 ピストン運動数十回の間に射精するのが男と思わないでほしい、ということかもしれなかったし、射精しなくてもいいですか、だったかもしれない。もし勃たなくてもそれはあなたに魅力がないこととはちがう、と言いたかったのかもしれない。男がセックスの主導権を持たなければいけないような風潮が嫌だと訴えたのかもしれない。もっとさわってほしい、だったかもしれない。どこもかしこも、ていねいにさわられたかったのかもしれない。声をあげてみたかったのかもしれない。行為中に泣きたかったのかもしれない、壊れるほど感じてみたかったのかもしれない、女のように体毛を手入れしてすべすべな肌を愛でられたかったのかもしれない。名前を呼んでかわいいと言って頭をなでて、だったのかもしれない。女装してセックスしたかったのかもしれない。もしかしたら男も女に挿入されたいと言ったのかもしれないし、マグロ女みたいにただ寝そべって好きにされたい、と言ったのかもしれない。
 そういうふるえるような告白を、その切実ささえ、日々の暮らしの中でわたしたちは忘れやすい。
 それは、愛に属することだ。
 そして、とてもエネルギーが要る。
 それよりはセックスの相手を簡単に替えてしまいたい、と思ったことがある。
 親密な関係の中でひとつひとつをゼロから話し合ってつくることより。
 ときに、愛をとるよりセックスを。
 相手を替えて刺激を得たほうが早いと思ってしまう。
 セックスと愛を切り離そうとする。
 セックスはいつも、親密さと刺激のはざまにある。愛と刺激のはざまで揺れ動く。
 刺激が勝つと、愛を捨てかねなかったりもする。
 あきらめてしまう。性と愛の交差するところで相手をとらえることを。その魅力のすべてを、人間の可能性を、知ろうとすることを。
 それは愛の可能性を狭めることだが、忘れて、できればふつうの枠におさまりたい。
 愛の可能性を忘れてまで、人は、できればふつうの枠に収まりたいと思う。
 ふつうの枠におさまることで、不問に付される数々のメリットを享受する。
 なんということだろう。
 しかもごくふつうに。
 そうして自分の中の愛の可能性を殺してしまう。
 それよりは、手っ取り早く欲情したいと思ったりする。
 愛と欲情を切り離す。
 欲情はだいたい、出会い頭のものだ。それはこわさとも少しだけ似ている。暴力になってもおかしくない状況で、しかし暴力は起こらず、それよりはお互いを求める気持ちが勝つと、見ず知らずだった人ととつぜんつながる。
 そういう結びつき方は、日常をともに過ごしている関係性では、起こりにくくなる。
 見知った期間が長い人との間には、セックスは起こりにくくなる。
 世にいうセックスレス問題だけれど、ならば日常の中で起こるセックスとはどんなものだろう? それは純粋に相手への興味だったり驚嘆だったり、賞賛のあらわれだったりするかもしれない。
 それは美しい。それは一般的な意味で言われるセックスではないのかもしれないが、しかし、親密なエネルギーの交歓のすべては、セックスだとも言える。
 だったらセックスってなんなんだ、という問いを、わたしたちはほとんどしない。
 しかしそれより、いつかどこかで見たようなセックスのほうを、懐かしんだりする。そんなもの、本当は知らないのに。自分に一度も、あったためしがないのに。
 それでもあまりの未知よりは、退屈でも息苦しくても、既知をえらびたい。
 わたしたちが息苦しいのは、ある意味、わたしたちが選んだことの結果である。


 性的マイノリティは存在しない。
 なぜなら、マジョリティなど存在しないから。
「マジョリティ」とは、「マジョリティに入りたい人」のことだ。マジョリティに入ることに腐心し、数々のメリットを享受し、そこで眠りこける。しかし彼や彼女は、そこで自分が何を失っているのかに気づいていない。いや、気づかないふりをしている。
 自分の欲求をごまかさず、すべて細かく描き出して認めたら、それは誰とも似ていない。
 たとえば似た海岸線は、ひとつとしてなく、なだらかな海岸線が複雑な海岸線よりいいわけでもない。逆もまた真。
 誰とも似ていないし、だから当然「世間」なんてものと接点はない。が、自分の真実を自分で認められたら、それが「世間的」にどれほど変わっていようが、自分は落ち着く。
 ただそういう地図を真摯につくり、自分のかたちを自分で知り、認め、好きな他人のそれも見せてほしいと、心から頼むことを、わたしたちは、しなさすぎる。

 わたしたちはみな、自分の地図を持たず、共に在りたいと願う相手の地形も知らず、冒険しようとしている人のようだ。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)

1964年、東京生まれ。作家。90年に別件で行ったバイト面接で、なぜかアート誌の編集長を任され、つとめた。編集長として働いているとき自分にも原稿を発注しようと思い立ち、小説を書いて、95年に「起爆者」でデビュー。著書に『ヴァイブレータ』(講談社文庫)、『ミューズ/コーリング』(河出文庫)、『箱の中の天皇』(河出書房新社)、『モテたい理由』『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)など。2012年に刊行した『東京プリズン』(河出書房新社)で毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞・紫式部文学賞を受賞。