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連載

「愛と性と存在のはなし」 赤坂真理
第2回 男であることはなぜ辛いのか

最終更新日 2019.10.01

 年来、「自らの男性性への嫌悪」「男であることの罪悪感」を口にする男に出逢ってきた。
 わたしはこれを他のどこでもあまり聞かないし読んだことがなかった。
 わたし自身、聞いてよくわかったとは言えない。
 じっさい、何がそんなにつらいのかと思っていた。
 彼らは、変わった人たちではない。どちらかというと、適応的な人たちで、この「男性的世界」でほどよく成功しているように見え、しかも優しくて人当たりがやわらかい。
 今風の男、と言うことができるかもしれない。
 加えて言えば、彼らは異性愛者であり、性同一性(生まれた性と、こうでありたい性)に齟齬を感じたりはしていない人たちである。
 つまり、いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」から聞いた言葉では、なかった。
 よく話してみなければ、彼らがそんな気持ちを抱えているとは気づけない。

 彼らの気持ちをわかりたいと思っていた。
 彼らはわたしの最も大切な部類の人たちでもあったから。
 何か大事なこと、切実なことを、言われている直観はあった。
 それでも、わたしには彼らの内実は、よくわからなかったのだ。

 人は、他人のことをわからないと同時に、反対の性の内実は、想像してみることすらむずかしい。
 数年か十数年か、経って、やっとこんなふうにわかってきた。

「想像してみることすらむずかしい」

 これは、この思索の随所に出てくる言葉となるだろう。
 よくよく肝に命じておかなければならない。
「想像することすらむずかしい」ことの、むずかしさを。
 そして自分の性と身体の水準でものを言い、相手もその基盤を共有しているものだと信じ込む。それですれ違って、嘆くこと。なぜわかってくれないのだろうと、相手をアホ扱いさえし、ときになじったりする。それを、たとえアタマでわかっていても、時に感情は、止まらなくなる……わたしもそういう間違いを、繰り返してきた。
 相手の内部メカニズムと、自分の内部メカニズムが、想像を絶してちがう。それを経て出てくる感情や表現が、まったく違う。本当に、それは想像を絶しているのだと思う。わたしにできるたとえは、テレビとクルマくらいちがうんじゃないか、くらいのこと。それが、「想像してみることすらむずかしい」ことへの、こちらの想像力の限界。ただ、想像力に絶対的な限界があると知ることは、相手に謙虚になれることではある。

 想像することすらむずかしいことのためにこそ、想像力は、ある。

 わたしはそう思う。
 そして忘れずにいたい。
 いつも、ありふれた、巨大な未知を目の前にしているのだと。
 そこにありのままに驚嘆したい。
 ならば自分もまた、自分にとって、そして誰かにとって、そのような巨大な驚嘆であるのだ。生まれながらに、誰しも。それを見せあえて、ありのまま味わいあえたら、それはどんなに素晴らしい世界だろうか。それは人の、まるごとの可能性であり、愛の、まるごとの可能性なのだ。
 こんな思いが、わたしを動かすパッションである。



 「そんなこと、思う必要はないんじゃない?」

 冒頭のように、「自らの性に嫌悪感ないし罪悪感がある」と口にする男たちに、わたしはそう言ってきたし、本心から思っていた。
 わたしが大切に思う人間たちに、そんな罪悪感は持ってほしくはなかったのだ。
 でも彼らの罪悪感は根深い。
 さらに問題は、誰にもそれを言えないことだろう。
 男は公にこういうことを言えないし、男同士で打ち明け話をする習慣もない。それが自分の「弱さ」と見えるようなことなら、なおさらである。
 わたしに言ったのは、わたしなら耳を傾けそうだと思ったことに加え、わたしが女だから、だったろう。
 個人の資質と、性の質が、ここでは総合されて、「わたし」という個人に、親密でデリケートな打ち明け話がなされた。異なる男性の口から、何度も。
 「わたし」のどこまでが個人の資質で、どこまでが性の影響を受けた資質か、わたしにはわからない。誰にも完全にはわからない。そういうものの総合を「個人」や「個性」と言ってきた。
 「性」に先立つ「個別性」があるのか、「性」は「個別性」を彩っているのか、それは、本当言ってわたしにはわからない。
 わたし自身、個性だと思ってきたものが、女性的資質の色濃いものだと思ったこともある。また、「あの人なら話を聞いてくれそう」という判断が、女性の受容的な質を感じてのことなのかも、わからない。

 わたしがこの一連の思索を『性と愛と存在のはなし』としたのには、意味がある。

 こんな思いが込められている。
 性というのは、どちらで生まれたにかかわらず、性自認がどうであるにかかわらず、性同一性に齟齬があるなしにかかわらず、性志向がどうであるにかかわらず、恋愛するしないにかかわらず、セックスするしないにかかわらず、人は一生、「性的存在」として生きる。
 それは、このわたしが、女のなりをしていてどことなくやわらかい雰囲気だから、今まで言えなかったことを言えるのかもしれないと、誰かが思ったりするようなことまで含む。
 そしてわたしが、性を含んだこの身体というプラットフォームを使って感じ、表現することで、誰かの糧にもなれるかも、しれない。
 性的な表現でなくても、すべての表現は、身体を通す以上、その特質の影響を受ける。考えることだって、身体を通す。
 いずれにせよ、人が生き、人と関わり、何かを表現するということは、一個のボディを、情報源、かつ発信源にすることなのだ。
 ある個人の一生を通じて、その人と、最初から最後までいるものは、唯一、その人の、身体、である。人は身体を超えた存在であるとしても、それを感じ、表現できることも、身体によってである。

 だから、自分の身体や身体のイメージに嫌悪を持つことは残酷である。
 身体や身体のイメージに嫌悪を持たせることは、残酷である。

 身体の、意識の、愛の、かたちはどうであれ、すべて驚嘆すべきものであり、すべてよしである。
 人類は、まだ、愛について何も知らない。本当に、そう思う。
 自分の愛の可能性も、他人の愛の可能性も、まるで。
 ならば、どんなかたちの愛にも、悩む必要は、ない。
 人は、「愛」を「性」の枠に押し込めすぎたきらいがあるし(結婚だってそうだと思う)、かと言って、性の扱いもまだ、ほとんど何も知らない。よって自分の愛し方と尊重の仕方を知らず、だから他者の愛し方も知らない。
 人類はまだ、愛に関してよちよち歩きだ。
 でも、考えようによっては、よちよち歩きとはいい時期ではないだろうか。なぜなら、立ち、歩くということすべてが、そこでは驚嘆であるからだ。

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