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連載

「愛と性と存在のはなし」 赤坂真理
第3回 #Metoo運動は何をめざしたいのか

最終更新日 2019.11.01

 女であるって生きづらいと思ってきた。
 生まれて死ぬまでホルモンに、体調から感情まで支配されて生きるようで、身体のリズムや変化は、不可抗力な自然からの介入で自分の思い通りになることは少なくて、セックスはいいものだけれど、セックスにまつわる負担は女に一方的に、圧倒的に、多くて。
 同じことやってるのに、不公平じゃない?
 と、権利以前のことで神を呪いたくなった、こともある。
 どこまでが不可抗力かどこからが意志なのか、女の人生は、きわめてわかりにくい。それに対して意志の持ち方が、よくわからない。持ってもどうにもならないこともあるし、流されようと思ってみれば、すべて流されることもできる。すべてがアクシデントとその結果のように、生きていくこともできる。
 女の人生は意志とアクシデントのはざまにある。そんなふうに言ってみたくなる。
 また、女は欲望の対象となる身体であると言う。常に視線で値踏みをされ、その価値を競うコンテストまで男によって行われていてけしからんと言う人達もいる。たしかにそれはわずらわしく、時に怖い。しかし、そのとき語られないのは、対象とならなければならないで寂しく、自信喪失する、という、女の質だ(もちろん、そんなことはぜんぜんない、という女の存在は、尊重する)。
 が、わたしがときどき面倒くさくなるのは、視線や値踏みのわずらわしさや侵入性を嫌悪しつつ、それがなければ寂しいという、そういうことの「すべて」なのだ。
 この頃、性的存在であること自体捨てたい、あるいは超越したい、と言う人をよく聞くのは、こういう気持ちなのではないかと思っている。にもかかわらず、人間は、死ぬまで性的存在であることを免れることはできない。どんなにジェンダーレスになってみても、性を生物レベルで捨てると、生も成り立たない。
 そんなこんながもう、すべていやになりもするのだ……そんなふうに思ってきた。

 もう、女のしあわせってなんのこと? 愛されること? 愛すること? 求められること? 自由に求めること? 子どもを持つこと? ハッピーなのは、どこまでがホルモンでどこからがわたしなの?
 わからない。わたしにはわからない。それで女をこじらせたと思ってきたし、女をこじらせたことで泣き叫んだっていいと思っていた。それで誰を傷つけ悲しませたっていいんだとも、どこかで思っていた。
 だって、わたしが傷ついているのだから。
 だって、女なんだから。めんどくさいんだから。
 この複雑な性を乗りこなす大変さでわたしはへとへとで、助けてほしい。
 感情的なのは、わたしが望んだわけでもなく、女が不安定だからだ。そんなふうにも言いたくなる。一度、たぶんホルモン剤の影響で、ものすごく不安定になったり、破壊的になったりしたことがあった。そのとき、人格というものがどの程度意志的なものか、わからなくなった。人格と性が、どのくらいかかわり、かかわっていないかも、よくわからなくなった。ホルモンの影響は、男女ともに受けるし、男女ともに、性ホルモンがなかったら、ふつうに生きてさえいけない。が、その影響が、このうえなく精妙で劇的なのは、やはり女性のほうだろう。
 不安定な性として、そして不利益を被りやすい性として、わたしは傷ついてきた。
 そう思っていた。
 それを言うのは、そして共感を得るのは、自分自身の内的な抑制や障害をのぞけば、案外簡単なことだったはずだ。
 現代は、女の不満をおおっぴらに言えば言うほど、共感を得る言語空間だったのである。
 女の不満は、比較的言いやすいし、聞かれやすい。言う定式もある程度できている。
 しかしそれには危険な側面もある。
 と、この頃、思うようになった。
 女の不満に言葉を与えられることで、女の不満はさらに燃え上がり、それは目的を失ってゆく。
 目的を失ってゆく、というのは、それが、何かの改善のためでなく、ただの不満の垂れ流しとなることを示す。これは建設的なことではない。
 男という他者をよく理解し、彼らと共にしあわせになりたいのか、男(相手)をただ批難して溜飲を下げたいのか、女自身にだってわかっているのかあやしい。感情がとめどもなくなるとはそういうことで、女性的な言語空間では、特にすぐにそうなりやすい。

 「共感」。
 その観点から言えば、現代の言語空間とは、圧倒的な女の優位でできている。社会的な立場という観点では、いまだに女に不当にできた社会なのかもしれなくても。その言語空間とは、SNSなどのより日常に密着したものも含む、広大なものである。
 いや、そういう日常的な言語空間こそは、誤解を恐れずに言えば「女性的な言語空間」である。

 そして「共感」というのが、現代ではいいことの代表のように言われるが、暴力的にもなりうることである。

 多数で囲い込んで、反対意見を封殺するような。出たものに批判を浴びせると言うよりは、それが出ること自体をあらかじめ許さない、というような。
 SNSで、夫や恋人がどれだけダメか、女が言うとかなりの共感を得る。男の上司や部下のことでもいい。
 有名ミュージシャンの夫を持つ妻が、夫が私生活ではろくでもない人間だと罵倒するツイートを見たことがある。大手メディアがそれを取り上げているのも。なぜ個人攻撃を大手メディアが是認するのか、わたしにはよくわからなかった。にもかかわらず、そのトピックは取り上げられ、それによりさらなる共感を得ていた。ひょっとしたら、たいへんよくあるタイプのろくでもなさで、女が次々と膝を打ったのかもしれない。としても、それをやっていいのかわたしにはわからなかった。
 立場を逆にして、男がパートナーの女や彼女を、彼らの価値観に照らしてどれだけダメかを公開で言いふらし、SNS上で男同士で盛り上がったとしたら。それはかなり社会的なバッシングの対象になる。それは「暴力」だと、言われ抵抗されるだろう。
 やることは、ほぼ同じでも、である。
 これは、明文化された禁忌があるわけではない。が、不文律としての「ジェンダー差別」ではないだろうか。だとしたら、「ガラスの天井」と同じように、見えない差別が男性に対してあることになる。
「ジェンダー的不均衡」が問題なのならば、こういうことも問題として丁寧に扱われなければいけないと思う。

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