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連載

「空想居酒屋」 島田雅彦
第6回 豆腐と卵

最終更新日 2019.09.17

 東京下町のある豆腐屋には週に二回ほど体格のいいフランス人が体にピッタリとフィットしたレオタード姿で現れるのだという。ジョギングで一汗かき、白い顔は赤く上気し、息も上がった状態で、絹ごし豆腐を一丁買い求め、それを皿に乗せてもらい、店先で一気食いすると、「メルシー」といい残し、軽やかに走り去ってゆくのだそうだ。店主が気を利かせて醤油を勧めたりするのだが、それを断り、大豆の風味に舌鼓を打っているというのだから、かなりの通である。
 体を激しく動かした後に豆腐を食べたくなる気分はよくわかる。特に絹ごし豆腐はプリンに酷似した食感で、咀嚼を省くこともでき、ほとんど飲み物といっていい。しかも、成分は大豆と水で低カロリー高タンパク食品の極みであるから、エクササイズ後にプロテインを摂取するようなものである。そのフランス人はなかなか理に適ったことをしているわけだが、モジモジくんみたいな出で立ちで豆腐を立ち食いする光景には微笑を誘われる。そのうち「走る豆腐小僧」とか、「青い目の豆腐小僧」といった異名を取るかもしれない。
 豆腐小僧というのはお盆に豆腐をのせて、にやけながら突っ立っているだけの人畜無害の妖怪だが、福助にそっくりなので、縁起物の類か。凧や双六の図柄にあしらわれていることも多いが、江戸時代のゆるキャラ、登録商標にも使われていたようである。子どもの頃、チャルメラの音色が聞こえると、母に小銭と鍋を持たされ、豆腐を買いに行かされたものだった。すでにオートバイが通り過ぎた後だと、遠くまで追跡する羽目になり、結局、店に買いに行った方が近かったなどということもあった。昔は妖怪ではない豆腐小僧の姿がどの町でも見られた。
 豆腐小僧が豆腐を盆にのせて運んで来たら、升酒をくいと飲みたくなるだろう。小僧の代わりに笑窪が可愛い少女でもいいし、浴衣が似合う妙齢の女性も大歓迎である。お盆に酒と豆腐。これだけで、そこが何処であろうと、居酒屋になる。韓国映画では刑務所から出て来たばかりの人を盆にのせた豆腐とともに出迎えるシーンをよく見る。誕生日にわかめスープを作るのに似た独特の習慣らしい。果たして娑婆の味というのは豆腐の味がするものだろうか?


「豆腐小僧」のイメージ(北尾政美『夭怪着到牒』より)


 居酒屋メニューの豆腐料理は何種類かあるが、最もシンプルなのはいわずもがな冷奴で、ネギと生姜とカツオ節が乗ったそれに醤油を一垂らしで、立派な肴になる。やや高級な店だと、すくい豆腐とか、寄せ豆腐とか、ざる豆腐と呼ばれる作りたてが出て来たりして、これが大豆の風味が濃く、それ自体が甘いので、充実した気分になれる。沖縄では寄せ豆腐は「ゆし豆腐」と訛るが、薄く温かいだしに浸かった状態で出てくる。これが疲れた胃に優しく収まる。またアイゴの稚魚の塩辛「スクガラス」をトッピングした島豆腐も泡盛が進む前菜になる。家では酒盗やアンチョビをのせたりしているが、もっとシンプルに食べるには塩、オリーブオイルで味付けすると、豆腐自体の甘みが引き立つようだ。中華風にするなら、ピータン豆腐が定番だが、私は細かく刻んだピータン、生姜、ネギ、ザーサイを水切りをして潰した絹ごし豆腐と和え、ごま油と塩少々で味を調整し、それを型に入れて冷やす方法を取る。これは高級中華料理店のパクリだが、客に出すと、評価が高い。
 居酒屋で湯豆腐を肴に酒を飲む姿がサマになったら、いい枯れ具合になったと見ていい。昆布だしの中で温まった豆腐をすくい、カツオ節の入ったポン酢に浸し、少し冷ましてから口に入れ、その後味とともに燗酒を一口すする。チェイサー代わりに昆布だしをお猪口に注いで飲むのもいいだろう。もっとパンチが欲しいという時は韓国のスンドゥブだ。アサリなどのだしにタマネギや唐辛子、ズッキーニなどが入った寄せ豆腐だが、辛味を効かせたスープにご飯を投入すれば、完璧なディナーである。麻婆豆腐もご飯なしには成立しにくいが、地方の居酒屋でお通しに麻婆豆腐の小鉢が出て来たことがあったから、酒のアテにすることもできなくはない。近頃は唐辛子と山椒を両方効かせた麻辣味の料理やスナックが増えており、これも元々は麻婆豆腐由来だから、酒が飲みたくなるような味ではあるのだ。
 台湾名物の豆腐料理に臭豆腐(チョートーフ)というのがあり、夜市に行ったことのある人は周囲に立ち込めたアンモニア臭に辟易した覚えがあるはずだ。発酵液につけた豆腐を油で揚げ、仕上げに甘めのソースをかけて食べるのだが、若いカップルも仲睦まじくこのアンモニア臭のする料理を食べているので、きっと慣れれば病みつきになるのだろうと、チャレンジしてみたが、なるほど臭いのは油で揚げている段階であって、仕上がった臭豆腐を口に入れると、案外臭いは気にならないことがわかった。これも辛いスープで煮たバージョンもあるが、やはり油で揚げた方が人気がある。
 豆腐加工食品の筆頭はやはり、油揚げであり、厚揚げである。豆腐店で揚げたてのものが手に入るなら、塩や醤油を借り、その場で丸かじりすることをお勧めする。サクッとした食感はパイを思わせるので、砂糖やシロップをかけて食べても美味しいに違いない。その油揚げに納豆を充填し、軽く炙った納豆きつねは豆腐店で売られているものを合体した居酒屋メニューといえるが、この組み合わせを思いついた無名の人を表彰したいくらいである。油揚げ好きの私はそれを炙って、千切りにしたものをタッパーに常備していて、サラダにクルトンの代わりに入れたり、「刻みうどん」にしたり、たくわんやキュウリの千切りと組み合わせたりして、サイドメニューに加えている。


「納豆きつね」思いついたのは誰なのか?


 日本人は概して豆腐においても鮮度にこだわる。副産物の湯葉の刺身というのもあるくらいだし、作りたての新鮮味が命だと思っているだろう。だが、中国ではこの豆腐の加工品のアイテムが多い。近頃、中華料理店の前菜でよく見かけるようになった干豆腐は、豆腐の水分を搾り取り、塩漬けにし、板状に伸ばしたものである。食材店で売っている干豆腐はそれを塩抜きし、麺状に切って、真空パックにしたものである。炭水化物の摂取を抑えている人は小麦の麺の代わりに干豆腐を使えばいいのである。一度、北京の下町を散歩していた折に町の豆腐店を見つけ、そこで干豆腐を買って帰ったが、反物のように巻かれていて、その一部をちぎって食べてみると、やたらに塩辛かった。そのせいで保存性は高いが、塩抜きが結構面倒だった。きしめん状にそれを切り、たっぷりのニラと炒め、オイスターソースで仕上げてみたが、糖質オフダイエット中の麺食いには強い味方となるはずである。
 アメリカやイタリアに住んでいた時は豆腐はオーガニック・フードの店で買い求めていたが、日本の繊細な豆腐に較べると、高野豆腐になる途上にあるような代物だったので、無調整の豆乳を買って来て、鍋で熱して、にがり成分の多い塩を入れたら、自家製の豆腐ができた。ただ、塩で作ると、かなりしょっぱい豆腐になるのが惜しかった。
 今回は豆腐店とコラボレーションする感覚で、豆腐に特化した居酒屋を空想してみたが、もう一つ素材を追加し、卵料理のつまみも用意しよう。物価の優等生といわれる卵は十個入りのパックで二百数十円、ブランド・エッグでも四百円程度と常に庶民の味方でいてくれる。冷蔵庫に何もなくても、卵さえあれば、何とか凌げる。イングリッシュ・ブレックファーストで酒を飲むのも悪くないので、先ずはスクランブルエッグ、オムレツ、目玉焼、ポーチドエッグなど卵料理の定番を試してみよう。今はなき大井町の居酒屋大山酒場はオムレツが人気メニューで、厨房の奥にはオムレツ係がいて、カセットコンロの前から動かず、次々と注文に応じていた。じゃこ、マッシュルーム、チーズ、ハム、トマト、納豆など様々なバリエーションがあったが、特筆すべきはそれが実に端整な佇まいを呈していたことである。表面には一切の焦げ目がなく、二の腕の筋肉を思わせるふくらみはシンメトリーで、表面の皮を破ると、半熟状態の中身が餡のように詰まっている。それは今にも流れ出しそうなのだが、決して流れ出したりはしない。このレベルのオムレツを焼くにはかなりの熟練を要するが、あの場末には名人が隠れていたのである。
 オムレツはフランス料理の基本でもあり、トリュフやフォアグラやチーズやウニを入れようものなら、即座にメイン料理のステージに躍り出る。目玉焼きだってトリュフ塩をかけたり、ホワイトアスパラガスをレアに焼いた目玉焼の黄身でフォンデュして食べれば、輝きを増す。居酒屋メニューに目玉焼やハムエッグがあったら、それをサイドメニューにしたくなるし、焼そばにトッピングしてあったら、得をした気分になれるし、辛ラーメンや徳島ラーメンには必ず入っているし、すき焼にも欠かせないし、祐天寺のもつ焼「ばん」に火曜日に行くのは、お通しがゆで卵だからだし、天ぷら店のシメには卵の天ぷらでご飯をかき込みたいし、おでんの卵は人数分注文したい。諸々考え合わせると、酒飲みにとって卵は欠かせないバイプレイヤーなのである。
 無数にバリエーションがある卵料理の中で、マイベストスリーを上げるとすれば、三位には煮卵が来る。角煮やおでんのそれもいいが、八角などの香辛料を効かせたお茶で煮た卵も捨てがたい。二位にはふわふわのだし巻き卵をあげる。銅製の角形フライパンで丁寧に焼き上げられたそれはいわば、固形のスープみたいなもので、スポンジ状の卵の組織は薄味のだしをたっぷりと含んだ容器になっている。卵の甘みとスフレのような食感に香り立つだしの風味が口の中で渾然一体となった時の至福は筆舌に尽くしがたい。そして、光栄ある一位にあげるのは台湾料理の切り干し大根入りのオムレツである。ネギとともに甘辛く味つけられた切り干し大根を餡に含んだオムレツは毎日食べても飽きない。
 このように豆腐と卵という基本食材のバリエーションを抑えておくだけで、ミニマリズムといえども、多様性が確保される。


卵料理ナンバーワンは「切り干し大根入りオムレツ」

プロフィール

島田雅彦(しまだ・まさひこ)

1961年、東京都生まれ。作家・法政大学教授。東京外国語大学ロシア語学科卒業。在学中の83年に『優しいサヨクのための嬉遊曲』で注目される。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞を受賞。ほかの著書に『天国が降ってくる』『僕は模造人間』『彗星の住人』『悪貨』『ニッチを探して』『オペラ・シンドローム』など多数。2010年下半期より芥川賞選考委員を務める。