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連載

思考入門
“よく考える” ための教室
戸田山和久(文と絵)

第2回 論理的ってどういうこと?
    ──世界でいちばんシンプルな定義

最終更新日 2019.08.01

「考える」ことができてラッキー!

 動物だって考えることができる。でも、ヒトの考えは動物よりちょいと上等だ、ということを前回お話しした。たとえば、ヒトの考えはただ一通りの使い道に直結してはいない。同じ考えを、いろんな行動に使うことができるし、何よりも「何もしないでとりあえず考えるだけ」ということができる。そして、ヒトはいま目の前にないものについても考えられる。だからヒトは希望をもつことができる。逆に、将来を不安に思うこともできる。未来のよいこと、悪いこと、どっちもいま起きていることではないよね。
 考えることとやることの間に時間差がもてるという第一の特徴と、いまその場にないことがらについて考えられるという第二の特徴を合わせると、「やる前に考える」ということができるようになる。シミュレーションだ。お米5キロとネギと豆腐を買ってきて、と言われたとしよう。スーパーの入り口でカゴをとりながらまずは考える。お米を最初にカゴに入れちゃうと、重いカゴを持って野菜売り場や豆腐売り場までいかないといけない。お米はレジのそばにある(たいていのスーパーではそうなってるよね。理由は分かるだろ?)。よし、お米は最後にしよう。まずネギを買って、豆腐、お米の順にすれば最短距離で、しかも重いものをもってうろつかなくてすむ。よし、行くぞ……みたいなことを、実際に買い物をする前に考えることができる。ダンドリのいいひとは、家を出る前にシミュレーションを済ませてしまうかもしれない。
 やってみる前にあらかじめ考えることができるのは、生きていくのにとても有利なことだ。考えるのがあまり上手ではない生きものは、とりあえずやっちゃう。やってみて失敗したやつは死ぬ。違う仕方でやってうまくいったやつが生き残って子孫を残す。……というのを繰り返して、うまくいくやりかたをとるものが次第に増えていく。
 こんな具合に、種ぜんたいで試行錯誤をくりかえして上手にやれるようになっていく。もうちょっと賢くなると、一匹でも試行錯誤ができる。「あるときにはこのやり方、またあるときには別のやり方」といろいろやってみる。失敗した方法はだんだんとやらなくなり、うまくいったやり方をとるようになる。こういうのを「学習」っていう。学習できる生きものは、失敗すなわち死、みたいな生きものよりずいぶん賢い。でも、こいつらは、うまく学習し終えるまでに、ずいぶん失敗して痛い目にあわないといけないし、ひどい失敗をするとやっぱり死んじゃう。
 ヒトも学習できる生きものだ。やってみて失敗と成功から学べる。でも、それ以上に、「やる前に考える」ができる生きものでもある。痛い目にあう前に、これをやると痛い目にあいそうだと考えることができて、それをあらかじめ避けられる生きものだ。「まずは失敗を恐れずにやってみよう」って言われることがあるでしょ。「試行錯誤が大事だよ」って。でも、これって失敗しても死にはしないってシミュレーションができているから、言われるんだよね。人生いちかばちかだ。さあ、スカイツリーから飛び降りてみよう、ってアドバイスするやつがいたら、ちょっと頭がどうかしている。「まずはやってみたら」というのは、どっちを選んだってあまり変わらないことについて言われる。だから、どっちでもいいんだ。いずれにせよ、やってみる前に考えることができる。これは生きのびていくのにかなり有利だよね。
 ヒトは、けっこう大きな動物だ。ヒトより大きな動物と小さな動物を比べてみると、小さい動物の方が種類が多そうだ。イヌ、ネコ、ネズミ、トカゲ、イモリ、カエル、タイ、ヒラメ、カブトムシ、ミミズ……みんなヒトより小さい。ヒトは大型哺乳類〈ほにゅうるい〉なのだね。……にしては、一匹をとってくるとなんだか頼りない。サイのように分厚い皮をもっているわけでもないし、ライオンのように鋭い爪と牙〈きば〉があるわけでもない。クジラやゾウほどはでかくない。早く走れるわけでもないし、木登りが上手なわけでもない。一匹一匹はひどく弱っちい。なのに、こんなに繁栄している。いま、地球には60億匹以上のヒトが生きている。こんなにたくさん生きてる大型哺乳類って、他にいないよ。家畜は別として。
 生きものは、生き延びるために、それぞれいろんな方法を進化させてきた。毒をもったり、鋭い牙や爪を生やしたり、からだじゅうをトゲだらけにしたり、空を飛んだり……。こういうものをもたないヒトの祖先がとった「方法」の一つが「あらかじめ考えておく」だったのだろう。で、これはすごくよい方法だった。でなきゃ、こんなに栄えているわけはない。


「反省的ほにゃらら」って何だ?

 前回、ヒトの「考え」には、もうひとつの特徴がある、と言った。その第三の特徴とは、自分の「考え」について考えることができる、ということだ。例にあげたのは、「自分はいま邪悪なことを考えているな」、「さっきからわたしの考えは堂々めぐりになってるな」、「どうしてこのことを考えようとすると感情的になってしまうのだろう」といった考えだ。こういう種類の考えを、反省的思考という。
 「反省」というと、キミたちはあまりいいイメージをもっていないだろう。何か悪さをして叱〈しか〉られるときに「反省しなさい」と言われる。反省させるためと称して、ご飯をもらえなかったり、ぶん殴られたりする。児童虐待ね。あるいは、自分からすすんで反省することもあるけど、それにはたいてい後悔という感情がくっついてくる。「あー。なんであのとき見て見ぬ振りをしてしまったんだろう。勇気を出してやめろ、と言えばよかった。ぐわー」とかね。いずれにせよイメージよくない。
 でも、ここで言う「反省」というのは、そういう反省とは違う。自分を振り返って考える、というところは似ているかもしれないけど。たんに「ほにゃららについてのほにゃらら」のことを「反省的ほにゃらら」と言うのである。たとえば、もっと気高〈けだか〉い望みをもてるようなひとになりたい、と望んでいるひとがいるとする。これは「望みについての望み」だから「反省的願望」と言えるね。同様に、「自分の考えについての考え」は反省的思考という。自分のものの考え方にどんな癖があるかについて考えているようなとき、「ちょっと自分の思考傾向について反省的思考をめぐらせてみました」と言ってみなよ、カッコイイぞ。
 ヒトの次に賢いとされているチンパンジーに反省的思考ができるか。これは学者のあいだでも意見が分かれているようだ。でも、ヒトは反省的思考ができるが、そのほか大多数の動物にはできない、あるいは苦手。これは正しいだろう。
 じゃあ、反省的思考ができるとどういういいことがあるのか。二つあると思うのね。まず第一に、自分の思考の流れをコントロールできるということ。前回、わたしたちは起きているあいだじゅうずっと考えている、そしてその考えはどんどん移ろってしまう、と言った。さらに、そういう風に気が散るということは、ほんらいは悪いことじゃないとも述べた。でも、気が散っては困るときもあるのよ。一つのことをじっくり考えようとしているときだ。テストの問題を解こうとしているとき。あるいは連載の原稿を書こうとしているとき。
 今日はひさびさに時間がとれたので、この原稿を書いているわけだけど、もう、さっきから気が散りっぱなしだ。ヒトの思考の特徴について考えをめぐらせていると、ふと夕ご飯は何にしよう、と思ってしまう。で、あれこれ考えて、暑いのでさっぱりと枝豆とカツオのたたきでビールを飲もう、とか決めたりする。このとき、「あ、いかんいかん、考えがそれてしまった。ヒト思考の特質について考えねば」と考えることができないと、わたしの思考はそれっぱなしになる。これでは、今日中に原稿を仕上げることはできないぞ。
 こういうふうに、自分の思考がいまどうなっているかをモニターして、うまくコントロールするために反省的思考は役に立つ。ほかの例をあげるなら、「あれ、さっき考えたことと矛盾することを考えているぞ。もう一度考え直そう」とか「なんだこれ、さっき考えたことと結局同じじゃないか。別の視点から考えてみよう」とか。

 反省的思考の利点、その二。自分がいま考えている、その思考の流れをその場その場でコントロールするだけでなく、反省的思考によって、これまでの自分の考え方がもっていた癖やゆがみに気づくことができる。それによって、これからの自分の考え方をよりよいものに改善することができる。これは、第一の利点より、もっと長い時間にわたる話だね。
 先日、『主戦場』というドキュメンタリー映画を観た。すごく面白かった。そのなかに、自分の考えのゆがみに気がついてそれを自分で直したひとが出てきた。そのひとは、第二次大戦中に日本軍がしでかしたさまざまな悪さについて、それはそんなに悪いことではない、言いがかりをつける韓国・中国人の方が間違っていると主張する活動にとても熱心に参加していた(こういう人たちを歴史修正主義者という)。ところがあるとき、自分が日本軍はそんなに悪くなかったと考えていた本当の理由は、戦中の日本が批判されると自分じしんが攻撃されたような気になってしまい、そうして傷ついた自分を守るために、日本軍のやったことを正当化しなければならないと思ってしまったからなんだ、ということに気づいた。そうして、客観的に見れば自分のかつての考え方はひどく偏〈かたよ〉っていたことを認めるようになった。
 というわけで、このひとは自分で自分の思考傾向を修正することができた。これは、自分の考えについて考えることができたからだ。


なんで「よく」考える必要があるの?

 以上のように、ヒトには、他の動物よりちょっとばかりややこしいことがらを考える能力がある。そしてその能力によって、きびしい環境を生き延び、こんなに繁栄するようになった。というか、そういう能力をもったヒトだけが生き延びることができた、かな。なので、こうした「考えるための能力」はみんなに生まれつき備わっている。ヒトとして生まれるかぎり、みんな考えるようにできているのである。わたしたちは、どうしても考えてしまう。そして考えを止めることができない。それはサイがツノをつけたりはずしたりできないようなものだ。
 考えることができるというのは、基本的にはよいことだ。生きるのに有利なことだ。考えられないのに比べれば。だけど、このことは裏を返せば、わたしたちは「考える」に頼って生きていかざるをえない、ということでもある。ヒトのくらしは、みんなが考えられるということを前提してできあがってしまった。だから、たんに考えることができるのではダメだ。「うまく考える」ことができないと困ったことになる。
 うまく考えられないと生きにくくなる、というのは一人一人をとってみても言えることだし、人類ぜんたいにも当てはまることだ。残念ながら、すべてのひとが善人なわけではない。自分さえよければ他人はどうでもよいと思っているひとがいる。他人を自分の欲望のはけぐちとしか思っていないひとがいる。他人の無知や不幸につけこもうとするひとがいる。他人を支配したり蔑〈さげす〉んだりするのが何よりの楽しみだというひとがいる。「あなたのため」と言いながら他人のプライバシーにずかずかと踏み込んでくるひとがいる。キミのまわりにもいるだろう。いっぽう、キミの成長を我がことのように喜んでくれるひと、いざというときにキミに助けの手を差し伸べてくれるひと、損得ぬきでキミと付き合ってくれるひともたくさんいる。でも、世の中はそういうひとばかりではない。あまり気分のよい話ではないけど。
 わたしたちの暮らす世界はユートピアではない。たしかに「ライフ・イズ・ビューティフル」でもあるんだけど「ライフ・イズ・ヘル」でもある。そういえば、ブルーハーツも、この世は天国じゃないけど地獄でもないと歌ってたっけ。
 さて、考える力はわたしたちみんなに備わっている。だから、あなたを傷つけ、利用しようとするひとも、考えることができる。どうやったら、あなたをもっと深く傷つけることができるか、どうやったら、あなたをもっと上手に支配することができるか。支配されていると思わせずに支配できたら最高だ。どうやったらそれができるだろう。……あなたの「敵」はこうしたことを考えている。こうした世の中で、ひとの食い物にされずに、しかも気高く生き延びる方法があるとしたら、それはただ一つ。そいつらよりもっとよく考えることだ。そして「やられたらやりかえす」「やられるまえにやっつける」ではない仕方で、どうやったらうまく生きられるのかを考えることだ。そうしないと、あなたの人生はずっと戦争状態(平坦な戦場)になってしまう。

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