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連載

思考入門
“よく考える” ための教室
戸田山和久(文と絵)

第5回 論理的思考のようで論理的でないベンベン、
     それは何かと尋ねたら……
第5回 論理的思考のようで論理的でないベンベン、それは何かと尋ねたら……

最終更新日 2019.11.01

ここでクギをさしておこう、「論理的な愚か者」になってはいけない

 論理的によく考える・書く・話すというのは、思考・主張にできるだけ強いサポートを与えることに気を配りながら、思考や文をつなげていくことだと述べた。「強いサポート」というのは、ツッコミに負けにくいサポートのことだ。と同時に、どのくらい強いサポートがあればよしとするのか、同じことだが、いまはどのへんまでツッコんでもいいのか、というのは時と場合による。論理的な会話のケースでは、話し相手にもよる。
 というわけで、ツッコミとサポートのやりっこをどこでやめるか、つまり論理的思考をどこで切り上げるかはけっこう大事なことだ。それどころか、「いまは論理的に考え、語るべきときなのか」を見極めることも大事だ。どんな人とどんなときにどんなことがらについて話していても、サポートはしっかりしているのかがつねに気になり、ツッコミどころはどこかを探して、相手にツッコミを入れまくってしまう人がいる。そういう人は、「論理的な愚か者」と呼んでおこう。
 論理的な愚か者になってはいけない。たとえば、キミが久しぶりにおばあちゃんに会いにいったとしよう。小さいときにずいぶん可愛がってもらった。ふと、どうしているかなと気になったので訪ねてみよう、というわけだ。おばあちゃんは、キミの顔を見るなり「来てくれるんじゃないかと思ってたよ」と言う。なぜなの、ときくと、おばあちゃんは「今朝ね、お前の夢を見たからだよ」と答える。このとき、それではサポートとして十分じゃないね、とツッコまないでしょ、ふつう。おばあちゃんはキミと予知現象の有無について議論がしたいわけではない。おまえに会えてうれしいよ、と言いたいんだ。いまは論理的に考え、語る場合ではない。
 というわけで、キミがめざすべきなのは次のことだ。

 1)いまは論理的に考え、語るべきときなのかを見極めることができる
 2)論理的に考え、語るべきときにはそれができる
 3)時と場合(相手も含む)に応じて、どのていど論理的に考え、語ればよいのかの見極めができる

 こうやって書きだしてみると、難しそうに思える。だけど、これってまともなおとななら自然とできるようになっているはずのことだ。これが難しいということは、ひょっとしたらまともなおとなになるのが難しいということかもしれない。


では「論理的に考え、語るべきとき」ってどういうとき?

 わたしたちはいつも論理的に考えなければならないわけではない。たわいのない会話を楽しんでいるとき、落ちこんでいる自分をなぐさめようとしているとき、むしろ論理はジャマになる。前者においては、かえって連想で話題がどんどん飛んでいったほうが楽しいかもしれない。後者においては、あえて視野を偏〈かたよ〉らせて、物事の明るい面だけを見ようとしたほうがよいかもしれない。また、これは次回に述べることになるけど、わたしたちの頭はあまり論理的思考がうまくできるようにはなっていない。ちょっとがんばらないと論理的に考えることはできない。
 じゃあ、がんばって論理的に考え、語るべきときって、いったいどういうときなんだろう。
 みんなで悪巧〈だく〉みをしているときは、論理的に考えて語り合わねばならない。銀行強盗のプランを練っているときとかね。「警報を鳴らされちゃったらどうする」というツッコミに対して、「そういう縁起でもねえことを言うな」と答えるボスのもとでは、強盗はきっと失敗する。……なんでこんなことを言うかというと、「論理的に考える」ことじたいはいいことでも悪いことでもないということを忘れてはならないからだ。周到〈しゅうとう〉に綿密〈めんみつ〉に考え抜いたうえで悪いことをするヤツはいる。論理的思考というのは手段であって目的ではない。よい目的のために使われることも、そうでない目的のために使われることもある。どっちにも役立つ。包丁〈ほうちょう〉みたいなものだね。美味〈おい〉しい料理をつくるためにも、人殺しにも使える。


悪いヤツらほど論理的になる


答えは二つ、「学問するとき」と「政治するとき」

 そこで、さっきの問いをちょっとだけアレンジしよう。いま考えたいのは次のことだ。

 よい目的のために、がんばって論理的に考え、語るべきときって、いったいどういうときなんだろう?

 おそらく、答えは二つあると思うのね。一つは、この世が本当のところどうなっているかをなるべく正しく知りたいとき。もう一つは、そうやって知ったことがらに基づいて、みんなの幸せにかかわることがらについてみんなで議論してどうするかを決めようとしているとき。
 第一の活動がプロっぽくなって、専門家がやるようになったものを「学問」という。でも、この活動じたいは誰だってやっている(やらないといけない)。近所のラーメン屋が閉店したかどうかを知ろうとする、これも「この世が本当のところどうなっているかをなるべく正しく知る」の一部だよね。そういったごく日常的な「知る」もあるし、物質は電子とクオークでできているとか、「南京大虐殺」でどのくらいの人が殺されたのかとか、そういう学問的な「知る」もある。
 この世の本当のありさまをなるべく正しく知るためには、論理的思考が必要だ。すでに述べたように、「本当のありさま」は、直接目で見て確かめることができないものも多い。だから、間接的な証拠をいろいろ集めて、それを使って、「この世はこうなっていますよ」という主張をサポートする必要がある。そして、そのサポートが強ければ強いほど、主張は「きっと正しいんだろうなあ」と思ってもらえる。
 科学とか学問では、どういうことをすればサポートしたことになるのか、どういうツッコミは有効で、どういうツッコミはやりすぎなのかがだいたい決まっている。この決まりを身につけないと、学者・研究者にはなれない。そして、この決まりはおおむねまもられている。そして「決まり」じたいもだんだん改善されていく。なので、科学は発展してきたんだ。
 第二の活動、みんなに関係することをみんなで議論して決める、これもいろんなレベルで行われている。学級会、クラブ活動、おとなになると地域の自治会、父母会……、いろんなのがある。家族や恋人のあいだだって、ときには議論して決めないといけないことが出てくる。結婚後の姓をどうするか、結婚式はやるのかやらないのか、仕事をどう続けるか、子どもは何人つくろうか、どこに住もうか……。
 みんなに関係することを決める、二人から国際レベルまで、これをひっくるめて「政治」という。政治のやり方にもいろいろある。オレが偉いんだから、オレが全部決める、文句言うな、というやり方もある。この場合、論理的思考は必要ない。必要なのは腕力だ。
 でも、みんなに関係することはみんなで議論して決めよう、という政治のやり方もあって、これをちゃんとやるためには論理的思考が必要だ。なぜなら、みんなで決めるためには、みんなが納得しないといけないからだ。みんなを納得させるためには、主張がちゃんとサポートされていなくてはいけないし、ツッコミに耐えられるものでなくてはならない。
 わたしたちの国は「みんなのことをみんなで議論して決める」という建前で政治が行われる国だ。ただし、国民全員が議論に参加することはできないので、選挙を通じて選んだ議員が議論して「みんなのこと」を決める。議会制民主主義というやつだね。こっちにもプロっぽくなった人々が現れる。政治家だ。ところがこの人たちは、あまり論理的思考や論理的議論が得意ではないように見える。それどころか、それをする気があるのかも疑わしい。だから困っちゃう。
 このことを憂〈うれ〉えていると話が長くなってしまう。とりあえずここでは、論理的思考には科学と民主主義を支えるという大切な働きがあるということをわかってもらって、次へ進もう。


「論理的思考の敵」から身を守れ

 論理的に考え、語ることを避けようとする人がいる。それも、苦手だからやりたくないというんではなく。そういう人は、そもそも目的からしておかしいんだ。
 論理的思考・議論の目的の一つは、「みんなの幸せにかかわることがらについてみんなで議論して決める」だった。「みんなの幸せ」を目指していない人、あるいは「みんな」の範囲がごく狭い人。つまり、自分の「お友だち」、社会の特定の階層、自分と考えの近い人たちの幸せを優先させる人。ひどい場合は自分一人の幼稚なプライドを、いろんな成員からなる社会・コミュニティぜんたいの幸福に優先させるような人。こういう人は論理的思考・議論を避けようとする。なぜなら、そういう人の主張は、そもそもサポートが貧弱なうえに、ツッコミどころが満載〈まんさい〉で、しかもそのツッコミに耐えられないからだ。
 あるいは、「みんなで議論して決める」のがイヤな人も、論理的思考・議論を避けたがる。議論によってみんなを説得するかわりに、脅〈おど〉したり、忘れたふりをしたり、感情に訴えたり、外に共通の敵をでっちあげたり、突然キレたりする。そして、決まってこう言う。「議論は終わりだ。決断の時だ」
 キミたちは、こういう「論理的思考の敵」になってはいかんよ。と同時に、論理的思考の敵から身を守るすべを身につけることもたいせつだ。そのためにどうしたらよいのかを考えていこう。


疑似論理的思考って何だ?

 あからさまに論理的思考・議論を避けているのは、誰の目にもわかりやすい。やっかいなのは、いっけん論理的に見えて本当のところは論理的ではない思考や議論だ。つまり、主張や結論にサポートが与えられているように見えるが、その「サポート」がぜんぜんサポートになっていないというケース。これは、気をつけないと見逃してしまう。
 論理的思考のようで論理的でないもの。これは疑似〈ぎじ〉科学ってやつに似ている。疑似科学って、心霊現象やUFOとか、いわゆるオカルトとごっちゃにされるけど、ちょっと違う。科学では解明できない不思議がこの世にはある、と主張するオカルトは疑似科学ではない。疑似科学というのは、そういう現象を科学的に扱うと称する活動のことだ。あくまでも、科学のにせもの。だから疑似「科学」なのである。超能力を「科学的」に研究するとする「超心理学」、神が生きものを現在の形につくったとする聖書の記述を「科学的に」証明しようとする「創造科学」などが代表的な疑似科学だ。科学を名乗るので科学っぽくふるまっている。学会をつくったり、論文誌を発行したり、実験や調査をしたりする。大学に講座をつくったりもする。でも、中身をよく調べてみると、いろんな点でフツウの科学とは異なっている。
 ここで扱おうとしているのは、うっかりすると論理的思考・議論に見えてしまうが、本当はそうではないものだ。伝統的には「詭弁〈きべん〉」とか「誤謬〈ごびゅう〉」と呼ばれてきたけど、「疑似論理的思考」と呼んだほうがよいかもしれない。あるいは、日本語には「ヘリクツ」という表現がある。これってうまい言い回しだよね。リクツでは割りきれないこと、リクツを超えたものということではなくて、あくまでリクツなの。でも本当のリクツではなくて、「屁〈へ〉」のような実体のないリクツ。
 ここから先は、疑似論理的思考・議論(ヘリクツ)の代表的なものを5つお目にかけよう。こういう考え方をする人、こういう議論をする人は世の中にたくさんいる。知らずにやってしまう人もいるし、知っててあえてやっている人もいる。こういう人たちから身を守ってほしいんだ。

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