身の回りに散りばめられている学びをつかまえる、フォトグラファーの安彦幸枝さんによる写真とエッセイ。
UP DATE | 2021.05.31
モンゴルへ行った。
20年ほど前のことだ。ふらっと入った旅行代理店でいろんな国のパンフレットを眺めていると、青い草原にぽつんと佇むゲルの写真が目に留まった。オフシーズンで思ったよりも金額は安い。その場でツアーに申し込んでしまった。迷っている時期で、なにか思い切ったことをしたかったのだと思う。
成田発の便で、6時間ほどでウランバートルに到着。空港まで迎えに来てくれた旅の通訳と落ち合うと、ツアー参加者は私ひとりだと告げられた。確か最低催行人数は三人からだったはず。団体ツアーのつもりが、通訳と二人きりの旅が始まった。
車が空港を出るとすぐに草原になった。牛の群れがたびたび道路を横切る。牛飼いたちは民族衣装のデールを着ている。
通訳の女性はデギと言った。
顔立ちは日本人と似ている。肌の色が白く瞳の色が淡いのはロシアの血が入っているからだった。バレエを習っていて、背筋が伸びて立ち振る舞いがきれいなのはそのせいだった。なにしろ二人しかいないし、同じ年頃で話はつきない。それぞれ似たような悩みも抱えていた。小学生の姪を連れてくる日もあり、まるで友人と旅行をしているようだった。
草原のゲルに宿泊した。
遊牧民として生活しながら、旅人を受け入れている一家にお世話になった。夏はラベンダーの花畑が広がってとてもいい匂いがする、とデギは言った。
母屋のゲルに入ると、中は思っていたよりも広い。壁にオオカミの毛皮が飾ってある。神棚にはダライ・ラマの写真と家族の写真。薪ストーブの上で大きな鍋が温まっている。
馬に乗って近くの山をトレッキングして、土まみれになって子犬と遊んだ。夕飯は、乾パンと、豆腐のようにやわらかい自家製のチーズ。羊肉のスープと、馬乳酒も飲んだ。
寝室のゲルでベッドに横たわると、天窓から星が瞬いているのが見えた。
気配で目を覚ますと、扉の隙間から猫が白い腕をにゅっと伸ばしている。重くて開けられないのだ。昼間、お母さんはこの猫がゲルへ入りたがるのを追っ払っていたが、中へ入れて一緒に眠った。5月の朝晩はとても冷え込んだ。
デギはいつもストレッチをしていた。バレエを始めてから、一日も欠かさない習慣だ。
帰国する前日には、通っている教室を見学させてもらった。
自分で編んだ練習着はとても似合っていて、数人いる生徒の中でひときわ目立っている。しばらしくして写真を送ったらとても喜んでくれた。
デギは博士号を取得するために日本の大学へ留学し、短時間ながら再会した。いまでは母国の大学で日本語を教えている。バレエも続けており、近頃はフィギュアスケートの国際試合の解説もしているそうだ。
安彦幸枝(あびこ・さちえ)|父のデザイン事務所でアシスタントを務めた後、写真家泊昭雄氏に師事。著書に『庭猫スンスンと家猫くまの日日』(小学館)、『どこへ行っても犬と猫』(KADOKAWA)ほか。NHK出版では『NHK趣味どきっ!』テキストなどで撮影多数。