母の絵

エッセイ:学びの風景 
安彦幸枝(フォトグラファー)

身の回りに散りばめられている学びをつかまえる、フォトグラファーの安彦幸枝さんによる写真とエッセイ。

UP DATE | 2021.12.24

母は油絵を描いている。
はじめた頃は、近くのカルチャーセンターへ通ってデッサンを習っていた。
そのうち自宅に大きなイーゼルが持ち込まれ、絵の道具は少しずつ増えていき、
いつのまにか、かつての私の寝室は母のアトリエになっていた。

モチーフはたいてい、人物や花、猫。絵画展にも出品するようになり、年に数度、新作を見るために家族で会場に集まるのが恒例だ。一年のあいだに、100号サイズを二、三点、小さいものでも四、五点ほどを描き上げる。締め切りが近づくと、今度こそ間に合わないかも!と慌てだすものの、いつもなんとかなっている。父はたまに冗談で、母のことをセンセイと呼ぶ。家族から見ても、ずいぶん上手になったと思う。母の人生にとって絵は、いつのまにか欠かせないものになっていた。

モデルは18歳のハナ吉。

アトリエの壁には、いろんなものが貼られている。裸婦のエスキースや草花の拡大写真。ファッション誌のモデルの切り抜きや、孫からの手紙。西日が差し込むこの部屋で、ラジオや音楽を聴きながら筆を動かしている時間は、何よりも幸せだという。母は編み物や刺繍などの根を詰める作業が得意で、それはわたしの知らない感覚だ。集中力はなく習い事はどれも続かなかった。どちらかといえば瞬発力はあるから、写真は向いていたのかもしれない。

母は絵の仲間たちと、イタリアへ美術を巡る旅をしたことがあった。当時ひとり暮らしを始めたばかりの部屋に、フィレンツェからエアメイルが届いた。有名な受胎告知の絵だった。旅先であっても私の健康や幸せを願う言葉とともに、「大好きな絵だから、いつかあなたにも見てほしい」と結んであった。そのハガキは何度かの引っ越しを経たいまも、壁に貼ってある。

アルノ川に架かるポンテ・ヴェッキオは、イタリア語で「古い橋」。

数年前、仕事でフィレンツェへ行く機会があった。かつて母が送ってくれたフラ・アンジェリコの絵は、サン・マルコ修道院に収蔵されている。少しの空き時間に出かけたところ、観光客の長蛇の列に断念した。母が来た頃はどうだっただろう。絵を見るための旅だったから、きっと辛抱強く並んだのだろう。フィレンツェは街全体が美術館のようで、眼に映るものすべてが嬉しかったと思う。いまよりずっと若かった母が、同じ石畳を歩いているのを想像した。

週末、フィレンツェの公園で開かれていたマーケットで。

安彦幸枝(あびこ・さちえ)|父のデザイン事務所でアシスタントを務めた後、写真家泊昭雄氏に師事。著書に『庭猫スンスンと家猫くまの日日』(小学館)、『どこへ行っても犬と猫』(KADOKAWA)ほか。NHK出版では『NHK趣味どきっ!』テキストなどで撮影多数。

STAFF

  • Photo&Text : Sachie Abiko
  • Edit:Shinsuke Sato(NHK Publishing)

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