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概要

『護られなかった者たちへ』待望の続編! 東日本大震災によって引かれたさまざまな“境界線”が導く真実とは? 著者渾身の社会派ミステリー小説。

8 一 生者と死者人一人の素性を明らかにするのがこれほど困難だとは。口に出さないまでも当惑していると、隣でハンドルを握っていた蓮田が正面を向いたまま声を掛けてきた。「例の、海岸で見つかった女の件ですか」 笘篠は無言で頷く。長い間一緒に仕事をしていると、顔色や雰囲気だけで考えが伝わることがある。相棒と夫婦は似ているのかもしれない。「もう一週間ですね」「まだ一週間だ」 強がりに聞こえたのか、蓮田はわずかに苦笑する。「わたしも時々、考えます。人の素性なんて案外簡単に分からなくなるものなんですね。所持品なし、データベースでヒットなし。本人の死体が目の前にあるっていうのに、未だに我々は彼女の本名すら知らない」「ただ、そこにいるだけじゃ駄目なんだ」「何が駄目なんですか」「名前を持った人間として認識されるには身体が存在するだけじゃ不充分なんだ。記録と記憶の両方が要る。そいつが存在するという公的な記録、つまり戸籍を基に発行される各種証明書。それからそいつを見たり話したりしたことがあるという他人の記憶。その二つがないと、ここに立って息をしていてもそいつは存在していないことになる」「……時々、笘篠さんは哲学めいたことを言うんですね」「別に哲学じゃない。現に死体で発見された女は記録も記憶もないせいで、身体はあるのに存在