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リポート

対談 鈴木 晶×岸見一郎
フロムの「愛」と
アドラーの「勇気」に学ぶ

最終更新日 2019.04.19

2019年3月24日、梅田 蔦屋書店にて、1月にNHK出版新書『フロムに学ぶ 「愛する」ための心理学』を刊行した著者・鈴木晶氏と、ベストセラー『嫌われる勇気』でおなじみの哲学者・岸見一郎氏によるトークイベントが開催されました。ここでは、心理学者のフロムとアドラーの話を中心に、大いに盛り上がったイベントの様子をお届けします。

進行・三砂慶明(梅田 蔦屋書店 人文コンシェルジュ)
写真提供・梅田 蔦屋書店

エーリッヒ・フロムについて

――鈴木先生、岸見先生、本日はご来店いただきまして、誠にありがとうございます。早速ですが、鈴木先生、会場の方でもしかしたらご存知にならない方もいらっしゃるかと思いますので、フロムがどういう方だったのか教えていただいてもよろしいでしょうか。

鈴木
 エーリッヒ・フロム(1900~80)はドイツ人で、同時にユダヤ人です。この人を話すうえで忘れてはならないのが、同じユダヤ人のジークムント・フロイト(1856~1939)ですね。フロイトはご存知のとおり、19世紀の終わりに精神分析学というものを創立した人物です。「精神分析」というのは主にユダヤ人のあいだで広まった学問で、ユダヤ人以外に広まっていくのはもう少しあとになります。
 フロムはフロイトよりもだいぶ年下で次の世代にあたり、一般的には「ネオフロイディアン(新フロイト派)」と呼ばれている人たちのうちのひとりです。フロイトの直接の弟子ではありませんが、人間の心に興味を持って精神分析学を勉強しました。
 しかし、フロイトに反発するところもあって、フロイト理論を修正しなければいけないと考えました。なぜかと言えば、マルクス主義の影響が当時非常に大きかったから。つまり、人間の心理の問題も、やはり経済、政治、社会といった問題と絡めないといけないと考えたわけです。
 フロムが国際的に有名になったのは、ナチスについて分析した『自由からの逃走』(1941)ですね。一般にナチスというと、「どうしてナチスが出てきたのか?」「なぜヒトラーが出てきたのか?」などについて政治経済的に分析されますが、フロムの場合は、それらの問いを「ドイツ国民の心理」という視点から分析しました。
 人類は長いこと、「自由」というのを目指してきました。反対に言うと、人間というのはずっと不自由で、いろんなものに縛られていた。それが近代になってだんだん解放されていきます。しかし、いざ自由になったときに、みんな自由を持て余してむしろ重荷になってしまった。それで誰かに預けたくなって、結果的にみんなヒトラーに任せてしまった。そういう形でナチスは出てきたのだ――と、明快に解説した本が『自由からの逃走』です。これは、国内外問わずベストセラーになりました。
 そのあとにフロムが出して、同じくベストセラーになったのが、私が翻訳した『愛するということ』です。日本では、すでに1959年に紀伊國屋書店から邦訳が出ていましたが、誤訳が多く、文章も読みにくいものでした。しかし、タイトルがよかったからか、毎年増刷して30年間で30万部も売れていました。そうしたら、たまたま紀伊國屋書店の編集部にいた、私の大学の後輩が「先輩、これを訳し直しませんか?」と声をかけてきた。なぜ私に話をもってきたかといえば、当時、私は心理学関係の本をたくさん訳していたからです。
 1991年に私が訳した新訳のほうも、幸い売れ続けて今に至っています。とくにバレンタインデーの時期になると、版元でもある紀伊國屋書店ではフェアをやっていますね。新宿本店などではケーキのように積んであります。
岸見
 私は、高校生のときに『自由からの逃走』を原書で読みました。今は『嫌われる勇気』の影響で、アルフレッド・アドラー(1870~1973)の名前と私の名前がセットで知られるようになりましたけれど、実はフロムとの出会いのほうがアドラーよりもはるかに前なのです。バートランド・ラッセル(1872~1970)の『西洋哲学史』を読み終わって、図書館司書の方に次は何を読んだらいいか尋ねたら「Escape from Freedomという本があるからこれを読んでみたら」と勧めてくださったのです。
 フロムは、ネオフロイディアンでもありますが、ネオアドレリアンでもあるのではないかと思うくらい、アドラーの思想に近い考えを持っていると私は考えています。フロムを読んだあとにアドラーに触れることになりましたが、はじめ「これはフロムが言っていたことではないか」と思いましたから。もちろん時代的にはアドラーのほうが古いのですが、フロムに引きつけてアドラーを読んだのです。
 これを話していいのかなとは思いますが、鈴木先生が『愛するということ』の新訳を出されたときに、私は誠に失礼ながら先生の本と英語の本を照らし合わせました。というのも、当時翻訳を始めたころだったので、優れた訳の秘密を探ろうとしたわけです。そういった意味では思い出深い本ですね。

恋と愛、愛と結婚の違い

――鈴木先生は今回『フロムに学ぶ 「愛する」ための心理学』(以下、『フロムに学ぶ』と略)を刊行されました。ここからは、この本にも書かれている恋と愛についてうかがいたいと思います。
 一般的な理解では、恋は「落ちるもの」と考えられていて、「どうすれば愛されるか」というような本もたくさんあります。しかし『フロムに学ぶ』では、「恋に落ちること」と「愛すること」は違う、とおっしゃっています。これは、岸見先生もご自身の著書で述べていることですが、両者の違いを教えていただけますか?

鈴木
 NHKの「世界の哲学者に人生相談」という番組で、恋愛相談に対してフロムが答えるという回がありました。そのときも「恋に落ちる」というのが話題になっていて、「恋に落ちるとは言うけれど、愛に落ちるという言葉はない」と出ていました。
 恋は日本語ですが、愛は、実は中国語です。中国語では「I love you」を「我愛你(ウォー・アイ・ニー)」と言って、愛という漢字が使われています。それがそのまま日本に入ってきた。だから、愛は訓読みではなく音読みです。6、7世紀に漢字が入ってきたとして、それから千数百年経っているにもかかわらず、愛は外国語のままなのです。なので日本人には使いにくい。「好きだぜ」「好きだよ」とは言えるけれど、普通に「愛しているよ」と出てこないのはそのせいです。
 日本人にとって男女の関係はすべて恋で、愛という言葉は、どちらかと言うと親が子どもに対する感情に対して使っていたようですね。その後、明治時代に西洋のものが入ってきて、西洋の「love」という感覚がよくわからなかったので、恋と愛をくっつけて「恋愛」という言葉を作ったという経緯があります。
 フロムの本を読むとわかるように、西洋では伝統的に大きなlove、つまり全体を含める愛というのがあって、その中に男女や親子の関係などがあるというのが基本です。全体を含める愛は人類愛だけではありません。ペット、あるいはもっと生命のないものに対する愛情、日本語だと「愛着」といったほうがいいかもしれませんが、「仕事を愛する」というときにも使われます。
 このような全般的な愛という感覚が日本にはなかった。それでいろいろ修正しなければならなかったのかなと思います。日本では恋と愛は別物だった、日本人にとっての特殊事情があったというのを、ひとつ指摘しておきます。
岸見
 重要なのは「対象」の問題ではなく、「愛し方」の問題であるということですね。多くの学生さんに長く講義をしてきましたが、「相手さえいれば恋愛は成就する」という人がたくさんいました。看護学校の学生はほとんどが女子生徒ですが、男性もクラスに数人はいました。でも、失礼な話なのですが、彼女たちにとってその男子生徒は全然眼中になかったのです。とにかく人がいない、相手がいないから恋愛は成就しないと言っていました。
 ただ、フロムもそうですしアドラーも言っていますけれど、問題なのは対象ではなく愛し方なのです。そこがうまくいかないと、人が変わっても同じ失敗を繰り返します。アドラーに即して言うと「この人を愛そう」という決心(目的)がまずあって、愛さなければならない理由(原因)を事後的に探し出す、と考えたほうがいいのです。
 というのも「この人は優しいから好き」といった場合、最初はよくてもやがて関係がこじれて別れ話が出てくると、この人に惹きつけられた理由であるはずの「優しさ」が違う意味で見えてきます。優しい人ではなく優柔不断な人、自分では決められない人だと見るようになってしまう。自分をぐいぐい引っ張ってくれて頼りがいがある人だったのが、関係がこじれてくると支配的な人にしか思えなくなるのです。
 なので、まず「この人を愛する」、あるいは「この人を愛さない」という決心があって、事後的に理由を探し出していくと考えたほうがいいと、学生さんたちには何度も強調して話してきました。人は変わっても同じことをするから、まず愛し方を学びましょう、と。この「愛し方」というのが、まさに「愛する技術」です。
鈴木
 フロムの『愛するということ』の一番の主張は、今、岸見先生がおっしゃったように「愛するというのはひとつの技術だ」というものです。一般の人は「誰でも愛することができる」と信じています。愛し方を習う必要なんかない、すでに身についているものだから、と。それにフロムはあえて逆らって、「愛は技術だ」と主張しているのです。
 またフロムは、「愛されることよりも愛するほうが大事だ」と強調しています。これはどういうことかと言うと、「生まれついての愛する能力はない」という意味です。つまり人間は、生まれたときには愛することはできないのです。
 では、どうしたら愛することができるのか。それは「真似」からです。人間というのはほとんどコピーでできあがっています。赤ちゃんはあまり情報が入っていないコンピュータみたいなものですが、母親からいっぱい愛を注がれます。でもこの段階では、まだ自分から愛することはできません。
 それが3、4歳から5、6歳、個人差がありますからもう少し後かもしれませんが、自分を愛してくれる母親をコピーするようになっていきます。要するに、今度は自分が愛する立場になる。そのときにはじめて「愛する」という能力を身につけます。ですから、もし反対に親から不幸にして愛されなかったら、愛するという行為を知らないまま成長する、ということにもなってしまいます。
岸見
 愛され続けていても、今度は自分が愛する立場に身を置こうと決心したい子どもはいるかもしれないですね。愛されていない子どもはそんなに多くないと思います。親は子どもが生きているだけで愛することになりますから。フロム的に言うと、「自分は無条件に愛されている」ということになりますかね。ただその状態に甘んじて、決して自分から愛そうとしない人もきっと多いでしょう。
 私には1歳3ヶ月の孫娘がいますが、3歳くらいになったら私にバースデーカードを送ってくれるようになるかもしれません。これも後天的に身につける能力と考えるとわかりやすいです。自然に身につくものではないので、もちろん学ばないといけません。そういう意味でアート(技術)なのです。
 不幸なラブストーリーというのが世の中には氾濫していますね。不幸なラブストーリーを読むことで、人々はそこから「私には恋愛などとても無理」ということを学んでいます。それと、人と関われば摩擦が生じます。普通は、最初からお互いに好きであることはないので、付き合い始めたら何らかの形で摩擦が起こる。そのうち嫌われることもあるし、裏切られるようなこともある。そういうことが予想されるので、初めから対人関係の中に入っていかないでおこうと決心する人がいてもおかしくはありません。不幸なラブストーリーを読む人は、その決心をしなければいけない自分を合理化するために読むのです。

――岸見先生は、アドラーの『個人心理学講義――生きることの科学』の中で、「愛と結婚に対する準備を教えてくれる本はどこにあるのだ。確かに愛と結婚を扱う本は数多くある。どの文学も恋愛物語を扱っている。しかし幸福な結婚を扱っている本に出会うことはほとんどない」とアドラーの言葉をご紹介されていますが、この愛と結婚、その違いには何かあるのでしょうか。

岸見
 愛と結婚の違いを言うのは難しいです。特に未熟な人たちの愛、知り合ったころの「愛されて幸せ」という段階の愛はイベントでしかありません。イベントというのは、たとえば「今週末どこかに遊びに行こう」と言ってふたりで旅行に行き、帰ってくるまでの間の時間です。旅行に行くと上げ膳据え膳で、自分では何もしなくても料理は食べられるし、掃除もしなくていい。そういう状況で過ごしていると、たぶん喧嘩は起こりません。
 それが愛だとすれば、結婚はライフ(生活)です。そうなると朝から晩まで顔を突き合わせなければいけないので、それまではいいとこ取りができたふたりの関係が崩れてきます。お互いにあまり相手に知られたくないところを知るようになる。そういう意味で、「結婚は愛の先にある段階だ」と私は理解しています。
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