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からくり

 おじさんは亡くなったお母さんの親族で、Eちゃんの実家が持っているアパートに住んで、そこを管理してくれている。小さいときからEちゃんをかわいがってくれた。でも今は末期のがんで、たぶんもう次のお休みまではもたないと思う、とEちゃんは言った。
 「お葬式になって帰る感じかもしれないですね」
 あきらめたように言うEちゃんに、私は言った。
 「うちは休んでもいい、お葬式には出なくてもいいと思う。死んでる人に会うのは気持ちの上でだいじだし、社会的にもだいじだけど、生きてるうちに会えたら、だれもわかってくれなくても、お葬式される前の生きてる本人こそが嬉しいでしょ。そのほうがだいじと思う。だからすぐに帰ってあげて。生きているうちに会ってあげて」
 前だったら、自分もギリギリで仕事しているし、育児もたいへんだし、とにかく今休まれたらかなわない、と心のどこかで思っただろう。でももうそんな生き方をやめた私はそう言ってあげることができた。それがやせがまんだったら意味がない。そうじゃない、ひとりの人が理由あってその場を離れたいとき、それをじゃましない自分の側のゆとりが自然であることが肝心なのだ。
 Eちゃんはすぐにうなずいた。
 「そうします、ほんとうにそう思えます」

 おじさんはEちゃんがたずねていってからすぐに亡くなった。結局臨終からお葬式まで彼女は立ち会うことができたのだった。
 最後はちゃんと話をして、痛いところをマッサージしてあげて、笑顔でお別れをして、おじさんが最後までEちゃんを大切に思ってくれていたことをEちゃんはその目で確認できた。
 Eちゃんは「ほんとうに帰ってよかった、おじさんに会えたし、満足をあげられた。そして、生きている姿を見ることができた、おやすみをいただいてありがとうございます、あのときああ言ってもらえなかったら、お葬式で帰るほうがだいじと思ってしまったかもしれない」と言った。
 私は自分のことをえらいだろう、と言いたくてこの話をしているのではない。
 これまでのベストをつくさなかった、忙しさで流してきた瞬間が、どんなおそろしいことを生みだしたのか、考えただけでぞっとしたのだ。
 今から取り戻せるだろうか。
 きっと取り戻せる。生きているかぎりは、何回でも。
 これはポジティブな考え方ではない、ただの事実なんだと思う。


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