東京に暮らしていると、建物のあいだから山が見えることがほとんどないように思う。
昔はもう少しよく山を見たと思うのは、やたらに高いところに登るのが好きな子どもだったせいだろうか。子どものほうがひまな時間をたくさん持っていたからだろうか。
昔の東京は今よりものどかだったので、全然知らないビルの屋上に勝手に登って、ジュースを飲みながら景色を見たりしたものだった。
それから、不思議なエピソードなのだが、高校の美術の卒業制作が「自分で創った凧を飛ばす。確かにちゃんと飛んでいるところを美術の教員が見届けなければいつまでも単位はあげない」というものだったから、飛ぶまでみんな何回も屋上に上がった。風がほどよくあって、しかも風の方向があまり激しく変わらないことを願って、凧を持った三年生たちは美術の時間は毎回屋上に集った。
そのとき、いつも遠くに山が見えていたことも、忘れられない思い出だ。
みんな凧から逃避したかったのか、山の話ばっかりしていた。
今でもたまに高いところに登るとうっすらと富士山や秩父連山が見えたりして嬉しくなることがあるけれど、空気が悪いせいかぼんやりと遠くにかすんでいる。関東は平野だからめりはりが少なく、味気ない眺めがだらっと広がる風景が多いのかもしれない。
これが東京に住んでいることの閉塞感のいちばんの理由かなあと思う。
ここは私のふるさとだから、自分がだれでもないだれかになれる人ごみもうなぎの寝床みたいな小さな家々も雑居ビルもネオンも大好き。でも、やっぱりくっきりした山が見たいといつだって思っている。
香港とか台湾とか韓国だって高層ビルがたくさんあるけれど、その隙間から緑の山々が近くに見えるから、どんなに建物が密集していてもちゃんと気持ちが広がっていくような気がする。
京都だって神戸だって九州だってそうだ。山がそこにあるから景色が完成している。
いつかまた東京の空気がきれいになって、子どもの頃みたいに遠くてもいつでも山が見えるようになるといいなと思う。
縁があってこの春、合計一ヶ月くらい九州にいた。
九州には海もあるけれど、いちばん身近に感じられたのはやっぱり山だった。
どこに行っても山が見てくれているような感じがした。
都城や鹿児島にいれば霧島山が、久留米にいれば高良山が、湯布院にいれば由布岳が町の人たちを見下ろしていた。みんながみんな、どんな仕事であれどんな年齢であれ、それぞれのタイミングでいろんな時間にちょっと山を見上げる。