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山のすがた

「今の時間は陽あたりが良すぎるからかねえ」
 と私たちは首を傾げていたが、なんのことはない、その少し下がった場所からだと由布岳がいちばんよく見えるのだった。
 いちばん楽しい思い出はなんだっただろうと振り返ってみると、少しでも山の近くに行きたくてばかみたいに巨大露天風呂の奥まで走って行った私たちが浮かんでくる。冷静に山を見ようと思っていたらありえなかったあの勢い。
 きっとこの世には私たちみたいな人がいっぱいいるんだろうと思ったのは、その露天風呂のいちばん山寄りに立て看板があって「絶対に芝生には入らないでください、危険です」と書いてあったからだ。それを見た頃にはもう遅くて、私たちは素っ裸のまま勢いよく芝生に立ち上がったあとだった。
 そこにはふつうの民家があり、畑があり、崖みたいになっていた。
 裸で転がり落ちたら悲惨なくらいのふつうの景色が広がっていた。
「大丈夫だよ、芝生っていうか、ふちの岩までしか登ってないし」
「そうだよね、下から見えたかもしれないけど中年だしね!」
 などと言い合って、かんかん照りの陽射しの中、熱い風呂に入って笑い合った私たち。
 そういうのがいちばんすてきなことだった。
 この間までいっしょに女湯に入っていたうちの息子だって、もうひとりで男湯に入る年齢になっていた。こんなときはいつでも泳がんばかりにはしゃいでいて止めるのが大変だったあの子。桶を使ってレストランごっこをしてふたりともいつもゆだってしまった大事な思い出。
 時間は過ぎていき、彼はもうお風呂でレストランごっこをしたりしないし、女湯に入ることはない(多分ね)。
 私とハワイの友だちだってそんなに仲良しなのに離れて暮らしているから、あと何回いっしょに旅ができるかだれにもわからない。
 そんなこともあんなこともみんな、山たちは見ているんだ、そう思った。
 大きなものに見られている暮らしは安心する。少し怖い気持ちも手伝って、自分の小ささがわかるのがなによりいいと思う。


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